宋常星『太上道徳経講義』第七十一章
宋常星『太上道徳経講義』第七十一章
(1)大いなる道はどこにでも存している。至理もあらゆるところで働いている。
(2)人の認識は本来、限りのあるものであるから、それをあらゆるところに及ぼそうとしても出来ることではない。全てを理解できると思うのは人の認識の限界を知らないからである、といえよう。
(3)ただ知ること、知らないことによる弊害があるわけではない。知らないことがあるのを問題視する必要はない。知らないということが分かっていれば良いのである。
(4)自分がどれくらい分かっているのかをよく理解して、分かっていないことを盲信することがなければ良いわけである。
(5)聖人が知っていることとは、多くの人において、まさに知っていることと知らないことの区別がついていないことがある、ということである。ここで述べられているのはまさにこの点である。
(6)この章では世の人は知らないことでも、強いて知っているように思い込もうとすることの弊害が述べられている。それについて詳しく教えが説かれている。
1、分かっているのは「上」は分からないということである。
(分かっているのは「下」に対して「上」があるということだけであり「上」そのものがどのような存在であるのかは分かっていないのである)
(1−1)何事でもよく理解し得ていて、及んでいないところのないのが「分かっている」ということである。
(1−2)そうであるなら「分かっていない」とは、どのようなことなのであろうか。それは明らかでないということである。考えが及ばず、混沌としていることである。
(1−3)細かな内実までをも、よく知っていて、外面に迷わされることがなく、あらゆることに通じていると思っているのは、かえって何も分かっていないということである。
(1−4)これは「『上』が分かっている(上限まで全てが分かっている)」という状態である。しかし、そうしたことはないのであるから、つまりは「分かっているのは『上』は分からないということである」とあるのである。
【補注】宋常星の解釈では「『上』つまり上限まで全てが分かっていると思い込んでいるのは、本当は分かっていないのである」ということになる。それは人の理解できる範囲には限りがあるからである。ただ「上」だけをして全体をいうとする解釈には無理があるであろう。ここは「上」「下」といった相対的な理解に留まっていると解するべきである。
2、分かっていないのは「病」が分かっている、ということである。
(我々は「病」そのものを理解し得ているわけではない。健康ではない状態を『病』」としているに過ぎない)
(2−1)「義」なるものの意味が分かっていないならば、その人は「義」を理解していないということになる。つまり「分かっていない」ということになる。
(2−2)分かっていないことを強いて知っているという人が居るのはどうしてであろうか。それは賢者を装って他人の上に立ちたいからである。他人の言うことを受け入れたくないからである。しかし何でも知っていると装って居る人こそが全くの無知なのである。
(2−3)「病」とは「自己を欺くこと」である。そうであるなら「分かっていないのは『病』は分かっているということである」とあるわけである。
【補注】宋常星は「『分かっていない』とは『人の理解には限界がある』ということであり、偽って全てを理解しているように見せて人を欺いて(病)、全てが分かっているとすることが『分かっていない』ということになる」と解釈している。
3、つまり「病」を「病」むのであれば、それは「病」とすることはできないわけである。
(つまり健康な時と比較することなく「病」をそのままに「病」むとすれば、それは「病」を得たと思うこともないであろう)
(3−1)ここで述べられているのは、あえて自分が「病」に罹っているかどうかを知ろうとすることは、自分が「病」であるかないかとは関係がないと分かる、ということの不思議さである。
(3−2)つまり知っていても、知らなくても「病」であることには変わりはないということである。
(3−3)自分が「病」であると分かるから「病」むわけではない。現実には「病」であると知っていても、知らなくても「病」であることに変わりはないのである。そうなれば「病」であると分かっていても、そうでなくても状況は同じなのである。
(3−4)「病」を「病」んでいると分かるのは、自分でも経験されることであろう。
(3−5)ただ「病」であっても、それを知らなければ「病」を経験していないので、「病」であるとは分からない。
(3−6)つまり「病」であると知っても、知らなくても、「病」であるという危機的状況には何らの変わりもないわけである。
(3−7)そうであるから「つまり『病』を『病』むのであれば、それは『病』とすることはできないわけである」としているのである。
【補注】宋常星は「『病』は『病』でいると分かるから『病』であるのではない。『病』であると分かっていても、分からなくても『病』んでいれば『病』であることに変わりないない」と解釈している。
4、聖人は「病」むことがない。それは「病」を「病」むからである。
(聖人は健康に対して「病」を認識することはない。それは健康と病気を区別しないからであり「病」んでいる時はただ「病」んでいる状態をそのままに受け入れているので特別「病」と思うこともないのである)
(4−1)ここでは「病」と思わないことの意味を重ねて明らかにしようとしている。
(4−2)聖人は、あえて、どうしても「病」であるかどうかを知ろうとはしないということである。聖人は無理に「病」んでいるところを探すことはない。そうしたことを聖人は「病」むことはない、としている。
(4−3)聖人は健康と病気を区別することはない。それらはただの状態であって、人は健康であったり「病」んだりすることがあるものである。
(4−4)自分であえて知ろうとすることがないので、天下のあらゆることを知ることの可能性が生まれる。
(4−5)それは、どのようなことでも知り得るということである。その意味するところは限りなく深い。
(4−6)強いて知ろうとすることで「病」を探し当ててしまう。人はどうして普通に暮らしているのにあえて「病」を探して「病」む必要があろうか。
(4−7)道を修する人は、そうした真知を得て、世俗の知恵を超越することができているであろうか。それは無理に知らないことを知ろうとするとすることではない。
(4−8)自然であれば「病」んでいると気にすることもないであろう。自然であればあえて「病」んでいると思うことがあろうか。自然であれば「病」であるかどうかを、知っているとか知らないとかいったことで心を「病」むことはないのである。
〈奥義伝開〉
ここで述べられているのは我々の「知」が単に相対的な認識に留まっており、真にそのものを知っているわけではないということである。「上」は「下」が認識されて始めて「上」であると思うだけで「上」そのものが分かっているわけではない。この例えは老子のよく語っていることであるが、ここでは「病」が取り上げられている。「病」も「健(すこやか)」な時と比べて、そう思うだけである。また「病」は好ましくない状態とされるが、そうとばかりも言えない。「健」である時には気づかなかった問題点を自覚できる良い機会であるとすることもできる。これは荘子になると更に詳しく論じられていて、身体に障害があることは決して悲観するようなことではないとしている(徳充符篇など)。また「死」も同様である。「生」と「死」は等しくあるもので「生」を楽しみ「死」を悲しむのはよろしくないと教えている。
ここで老子の示している「病」を「病」む、という言い方は後の禅の「病」になったら「病」のまま「病」とひとつになる、という考え方と似ている。それは今あるがままをそのままに受け入れることを一歩とする見方であり、あらゆる状況、存在に価値を認める生き方である。