丹道逍遥「失楽園の悪魔学〜神秘学の視点から〜
丹道逍遥「失楽園の悪魔学〜神秘学の視点から〜
西欧には悪魔学なるものがある。これはひとつには自然信仰の名残り、つまり「非」キリスト教的なものが悪魔信仰とされ、それを研究する学問としてある。東洋でいうなら神道や道教は悪魔信仰ということになろう。こうしたキリスト教以外の信仰が悪魔を信仰する行為と見なされて来たわけである。そうした中には、信仰だけではなく民俗医療や演劇など多彩な文化が含まれている。
一方でサバト(悪魔集会)に象徴されるような人々の夢想的レベルでの表明も悪魔信仰とされていた。日常生活では社会的な倫理つまりキリスト教的な倫理観に抑圧されており、それがいろいろなストレスを生んでいた。そうした意識レベルのストレスを解放する仕組みとして夢想的な悪魔信仰もあったのである。
そうであるから悪魔学は、まさに多彩な民族(民俗)の精神文化の宝庫ともいえる。それはキリスト教によって滅ぼされた精神文化の貴重な遺産でもある。インカなどはそうしたものが残されるよりも早く文化破壊が進行してしまって、インカの精神文化については分からないことが多い。その壮麗な建築などに見られる遺跡、遺物から想像するに実に特異な精神文化があったと思われるが、それが残らなかったのはインカに文字がなかったことも大きい。文字資料があれば、それが持ち出されて、あるいは隠されて伝えられた可能性は高い。中国では戦乱の時代になれば竹にそれを記して隠しておいたとされるし、チベットでは埋納経(聖なる山に埋められていた経典が発見されたとされるもの)の考え方がある。
他に悪魔学には「非」キリスト教的なものの他に「反」キリスト教というべきものがある。その最も重要な視点に「失楽園」の解釈がある。「失楽園」といえば17世紀、ミルトンの『失楽園』が有名であるが、そこでは「楽園追放」を悪魔の視点から再解釈しようとする姿勢を伺うことができる。ただ全体のストーリーは『聖書』に準じているので『失楽園』は悪魔学そのものの文献とはし難いところがある。現代『ダヴィンチコード』の著者として知られるダン・ブラウンの一連の著作はキリスト教界からかなりの反発を受けているが、かつてであればこうしたものは悪魔学の本と見なされていたかもしれない。
悪魔学からすれば、失楽園は悪魔によって知恵が開かれたものと考える。失楽園はアダムとイブが「善悪の知識の木の実」を食べることでエデンの園を追われるというストーリーであるが、これを「神の楽園という迷信」からの解放と考えるわけである。人が知恵を得ることで「神の楽園」が迷信であることを悟り、そこから去っていくという教えと読むわけである。「原罪」とされるものも人が人である限りは当然、存するものであって、それは「罪」などではなく、あるべき自然な姿であるに過ぎないと考えるわけである。それを「罪」として迷信の中に人々を閉じ込めようとする歴史が長く続いて来て、こうした「善悪の知恵」の教えは「悪魔」学、「悪魔」信仰として長く封印されて来たわけである。しかし人類の歴史はそうした「信仰」の迷妄から解放されるべき、解放されている歴史であることを気づくべき、とするのが悪魔学である。
失楽園の象徴として現れているのは蛇とリンゴであるが、それはクンダリニーと丹の象徴でもある。具体的な記述のない「善悪の知恵の木の実」がリンゴとされるようになったのはミルトンの『失楽園』からとされる。それが現在は何の疑いもなく受け入れられているのは「リンゴ」の象徴が人々の無意識に知恵と結びついてあったからと思われる。つまり「善悪の知恵」の覚醒の象徴としては「リンゴ」がふさわしいと無意識的に意識されていたわけである。「リンゴ」つまり「赤い玉」が象徴するのは中国の内丹道の「丹薬」である。これをイブが食べたというのは丹薬を得た「得丹」の状態に入ったことを象徴している。内丹道では「得丹」の段階に入れば後は「温養」としてそれを守り育てて、最終的な「善悪の叡智」を得ることになる。内丹道では「道」と一体となり「徳」を実践する結果が「善」を知る行為となる、ということになる。
一方「リンゴ」を勧める蛇はインドのヨーガのクンダリニーの象徴である。クンダリニー・シャクティは女神とみなされているが、これは蛇と女性性の結びつきをいうものであり「失楽園」で示されている象徴(蛇、女性)と共通している。このように「失楽園」に見られる象徴は各地に残る秘教的な伝承と共通しているのである。これは心理学的には集合無意識という地域や民族を超えた人類が普遍的にもっている象徴的観念(元型)の共通性によるものとされるが、神秘学的にはムーやアトランティスの時代の精神文化の名残りということもできるであろう。
ちなみに日本の弁財天信仰では宇賀神という蛇体の神を中世あたりから頭に載せるようになるが、これも何らかのルートで「善悪の知恵」の伝承が影響したものと思われる。宇賀神は老人の顔を持っているが「老人」は知恵の象徴である「老賢者」であり、若い女性(弁財天)は生命の象徴である。つまり弁財天でも「女性、知恵、蛇」の組み合わせを見ることができるのである。
ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、これは光と闇の闘争とされる迷信と叡智の闘争が叡智の勝ちとなりつつあることを感じた上でのものであったと言えよう。最近は「呪物」なる語が出来ている(呪いなどに使われた物などをいう語)が最近、奈良の大仏をテレビで見た時に「これは愚物である」と感じた。ちょうどコロナの頃に撮影されたもので、コロナ退散祈願を日々やっていると報じていたが、結局は何らの効果も無かった。今からすれば単なる迷信であることが明らかになったわけである。また同じく東大寺の二月堂で行われる修二会は本来、疫病退散で行われているのにもかかわらず閉鎖された空間で儀式を行うため「感染予防」として縮小された。これはこの儀式を行っている人たちも修二会が本当は「迷信」であることが分かっているからである。同様なことは祇園祭りを始めとして各地の疫病退散を願う祭りに共通して見られた。
これはいよいよ人類の一段の覚醒の時期が来ていることを表しているのかもしれない。封印された「善悪の知恵」が開かれる時が来ているのかもしれない。太古の叡智はいろいろなところに残されている。それを先入観にとらわれることなく求め続けたのが「悪魔学」であったのである。