道徳武芸研究 八卦掌と天台止観
道徳武芸研究 八卦掌と天台止観
八卦掌は八卦拳の一部であり、それが「八卦掌」世に流転した。八卦拳は八卦拳(羅漢拳)と八卦掌で構成されているが、入身の歩法と導引とを組み合わせた八卦掌の部分が広く世に知られるようになったのである。それは八卦掌が広まったのが北京であり、大都会である北京では既に武術の高いレベルにある人が多く、基本的な攻防の技術には精通しており、主として入身の技術を習得したがったという背景がある。形意拳などはその典型で八卦掌が、実質的には天津派の形意拳(李存義、張占魁)を媒介に広まったことも、八卦「拳」ではなく八卦「掌」がひとつの門派のように見なされて広まったひとつのの要因といえよう。そして、それは結果として一方で「神秘的」「最高級の武術」とされつつも「使い方の分からないシステム」と考えられるようになり現在では「投げ技」ではないかとする解釈が広まっている。
武術史家の康戈武は八卦掌の発生を道教の転天尊にあるとしたが、ある種の八卦掌の「分かりにくさ」はこうしたところにあるのかも知れない。つまりその起源が武術ではないところにあった、もともと攻防の技術ではなかったところに成立していたのが八卦「掌」であり、それを攻防へと繋ぐのが八卦「拳」であったのである。そうであるから多くの場合、八卦掌単独で学習されることはなく、形意拳など他の武術と併修されることがあるのはそうしたシステム上の要求があるからと考えられるのである。
転天尊とは本尊である「天尊」のまわりを歩いて巡る道教の儀礼であるが、これが円周上を歩くところに特徴を持つ八卦掌と共通していると康は考えたわけである。しかし転天尊は道教で広く行われているわけでもないし、それが仏教の常行三昧から来ているのは明らかである。また孫禄堂の『意拳述真』では師の程廷華が八卦掌は「口に念仏を唱えるように」と教えていたことからしても、念仏を唱えて阿弥陀仏のまわりをひたすら歩む常行三昧を八卦掌の淵源としては先ずは考えるべきであろう。それをあえて道教に求めたのは康の持つ「中華意識」によるもので、どうしても民族武術の発生を仏教とはしたくなかったのではなかろうかと思われるわけである。
常行三昧は天台止観に属するもので、天台止観は天台智顗の『摩訶止観』(6世紀)に記されている行法である。日本でも比叡山で行われていて、不眠不休でひたすら阿弥陀仏のまわりを念仏を唱えながら歩く行である。『摩訶止観』にはこの他に常坐三昧として坐禅の修行も説かれている。天台宗では膨大な『摩訶止観』の他に『天台小止観』のあることもよく知られている。これは全く仏教瞑想(坐禅)の解説書そのものであり、禅宗でも重視されている。いうならば仏教の基本は坐禅である。釈迦の頃は専ら坐禅をしていたわけであり常行三昧のようなものは行われていなかった。そうした意味では『天台小止観』は仏教瞑想のベースを解説するものであるといえる(既に多分に中国的な思想は混入しているが)。それに対して『摩訶止観』は基本となる坐禅に念仏行を加えているところに特徴がある。これをも含めて「止観」つまり仏教瞑想であるとするわけである。後に中国仏教は禅と念仏が残るだけになってしまうが、既に天台智顗はそれを見越していたともいえよう。ちなみに止観の「止」は妄想を持つことのない集中状態のことで、「観」はそれによって正しく物事を認識することである。
円周上を歩く走圏と天台宗の常行三昧との関係は分かるとして全部で四つある止観の三昧において他にもその関係を認めることはできるであろうか。常坐三昧については董海川や宮宝田に静坐をよくしていたとのエピソードがあるし、孫禄堂の『拳意述真』には董が壁の側で静坐をしていると突然、壁が崩れたがその時には董は既に別のところに居た、という話しも伝えている。
他にはあらゆる形式を脱した非行非坐三昧があるが、これは八卦掌では遊身掌(游身掌、変化掌)がそれに当たるといえよう。遊身掌は気の変化(気機)を感じて自在に動くもので特定の形はない。さらに止観には半行半坐三昧がある。これは坐禅と念仏を繰り返し行うわけであるが八卦掌では騎馬歩、弓箭歩、含機歩などの鍛錬とすることができる。これは一般には馬歩の鍛錬と総称される。
歴史的には、これら止観にある常坐三昧、半行半坐三昧、常行三昧と似たものとして内丹道の『生命圭旨』(17世紀)に記された坐禅、立禅、行禅があるが、これらは全て坐禅の変化である。現在、立禅は両手を胸の前で抱えるように構えるが、これは騎馬歩の変化であり、坐禅から変化した立禅では坐禅と同様に腹部に法界定印を組むことになっているし、静かに歩く行禅においても同じである。
こうした坐る行法と歩く行法の組み合わせは何処から来ているか、というと釈迦の時代の坐禅と経行(きんひん)から発している。ただ歩く行である経行はインド仏教では坐禅の疲れを癒やすことが第一とされたようである。これを積極的な瞑想として提唱した人にベトナム禅宗(臨済禅)のティク・ナット・ハンがいる。何にしても経行は本格的には禅宗と共にアジア地域にもたらされたということができるであろう。
そして、これが少林寺では易筋経、洗髄経の伝説となって武術との関係が生まれる。ただ易筋経では導引的な要素はあるものの「円形に歩く」ことは全く顧みられてはいない。やはりこれは天台止観からの影響を見るべきであろう。八卦掌は天台止観の中国的な展開として生まれたものであった。そうであるからそこに攻防の要素を見出すことが難しいのは当然といえば当然なのである。そして、それが目指したのは遊身掌であるところの攻防の超越であった。如何に攻防と係わらないようにするのか。人は攻防を超越することで真の安心(あんじん 不動の境地)を得ることができる、といえるのではなかろうか。形意拳に八卦掌が取り入れられたのは形意拳が「武芸」から「道芸」と変容しようとする要求を潜在的に持っていたからではないかと思われる。そしてそれは八卦掌により大きな一歩を踏み出すことになったのである。