丹道逍遥 真理先生〜クリシュナムルティと武者小路実篤と〜

 丹道逍遥 真理先生〜クリシュナムルティと武者小路実篤と〜

『真理先生』は武者小路実篤の代表作のひとつである。これは「まり」ではなく「しんり」と読むが、この作品では人は誠実に生きることで「真理」に到達し得るとする白樺派の思想が示されている。白樺派は人道主義、理想主義を標榜する文学者を中心とするグループで、日本では主として20世紀初頭の大正デモクラシーの風潮の中で人々に受け入れられて行った。

クリシュナムルティも形式や権威に頼らなくても、誠意をもって考えれば「真理」に至るとしていた。そうしたことからすればクリシュナムルティも思想的には人道主義、理想主義の人であったといえるであろうし、時代的にも実篤と重なっている(武者小路実篤は1855年〜1976年 クリシュナムルティは1895年〜1986年)。彼らの前にあってこうした思想を広めた人物にトルストイがある。実篤自身もよくトルストイに触れている。

20世紀前後に人類はある種の変革をとげた。それは「神」というシステムが機能しなくなったことが自覚された時期であったのである。こうした流れはクリシュナムルティの周辺ではシュタイナーの神智学から人智学への移行として見ることができる。普通名詞としての神智学は神の叡智を研究しようとするもので一般的にはキリスト教神秘主義に属する。ブラヴァツキーの神智学協会はそうした神智学の系譜につらなるものである。一方、シュタイナーの提唱した人智学は「神」の叡智ではなく「人」の叡智を開こうとするものであり、例えばキリストもそれを通して神の恩寵を受けることよりも、自己の内にキリスト意識を見出すことの方が重視された。

ただシュタイナーのキリスト意識などは、基本的にはキリスト教神秘主としてとらえることができるもので、これも大きく言えば神智学に含まれるということもできなくはあるまい(キリストの方を強調すれば神智学であり、意識の方を重く見れば人智学と取ることがdけいる)。

主として近代になって作られた古神道はそこに既に機能を失いつつある「神」をベースにしたことで鎮魂であっても禊であっても、その行法としてのシステムは機能不全に陥ってしまった。余計な部分が多すぎてシステムが円滑に疎いて行かないわけである。これは完全に「神」から脱却することのできてなかったシュタイナーにも同様のことが言えるのであり「キリスト意識」などとしたために、仏教的な教えとの整合性を整えるためにアトランティス意識など多くの概念を生み出してなんとか全体の整合性を取ろうとしたのであるが、結局は論理的には破綻をしてしまっている。それが「複雑」「難解」とされる所以である。本来、破綻している論理を無理に論理的に理解しようとするから分からなくなるのは当然のことであろう。

古来から神秘学が神智から人智への歩みであったと考えるならば、現代における神秘学にあっては「神」への迷信は脱却されるべき課題であろう。そしてそれは自由、平等、博愛の人道主義、理想主義の実現を志向する時、単なる幻想の遊戯を越えた価値を持つものと思われる。そうした中でクリシュナムルティの思想は常に念頭に置いておいて良いものでもあろう。


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