丹道逍遥 古代日高見の国の秘儀「太祝詞事」について〜「大祓祝詞」小考〜

 丹道逍遥 古代日高見の国の秘儀「太祝詞事」について〜「大祓祝詞」小考〜

大祓祝詞は神道の祝詞の中でもよく知られ唱えられているものである。他には天津(あまつ)祝詞がある。これは短いが大祓祝詞は長く、その取り合わせは仏教では般若心経と観音経に似ている。共に状況に合わせて唱えられる調子の良いもで、それぞれ長いバージョン、短いバージョンの代表とされている。大祓祝詞は本来は六月と十二月の大祓の儀式に際して唱えられるものであるが、中世あたりからは、それから離れて常に唱えられるようになった。こうしたこともあって中臣祓とも称される。加えて近代以降は大祓祝詞の一部が改められて新しいものが大祓祝詞、古いものを中臣祓と称することもある。


このように広く親しまれている大祓祝詞であるが、その中に記されている「天津祝詞の太祝詞事(ふとのりとごと)」については諸説がある。この部分は大祓祝詞が大きく前段と後段に分かれており、ちょうど前段の最後となるあたりに唱えられる。それが、

「天津祝詞の太祝詞事を宣(の)れ」

であり、これに続くのが、

「かく宣らば 天津神は天磐門(あめのいわと)を押披(おしひらき)て」

である。「かく宣らば」は「このように述べたならば」ということで、つまり「天津祝詞の太祝詞事」を述べたならば、ということになる。そこでこの間に「天津祝詞の太祝詞事」が抜けているのではないか、という疑問が出て来るわけである。この問題は特別な祝詞があった、とする説と大祓祝詞全体がそれであるとする説とがある。もし祝詞の間に異質の祝詞か呪文のようなものが入れられるのであれば、これは他にはない特殊な祝詞の形式といえる。ああるいはこうした発想に至ったのは般若心経の影響があるのかもしれない。般若心経では説明があって最後に最も重要な呪文が入る。それは「即説呪曰(そくせつしゅわつ)」に続くもので「つまり呪文を唱えるならばこう言うことになる」と導入をしているわけである。


それではどうして、こうした混乱が起こっているのか。それは本来的には大祓祝詞が大和朝廷に伝わる祝詞ではなかったからである。これは大祓祝詞そのものにも記されていることであるが大祓祝詞は「日高見(ひだかみ)の国」の祝詞であった。日高見の国は古代東北にあったとされる王権(あるいは文化地域)で、北上川の流域のあたりであろうと思われる。北上川の「北上(きたかみ)」は「日高見(ひだかみ)」に由来するものとされている。大祓祝詞は「罪」を川を通して広い海へと祓う儀式となっているので、その場所は海へと通じる流れの速い川がなければならない。こうした川は飛鳥、奈良や京都では見出すことができない。


大祓祝詞によれば「罪」は大きな船着き場にある船の艫綱 (ともづな)を解き放つように放ちやられるとしている。これを見ても大祓祝詞の祭祀の場所が大きな船のつく船着き場のあるところであることが分かる。またそこには森林もあるようで「繁木(しげき)」との語があり、こうした木を切るように「罪」を切り放つともある。こうした働きをもつ儀式であると大祓を説明した上で、その地域から解き放たれた「罪」は「川の瀬」に居る瀬織津比咩(せおりつひめ)が川に流して大海原へと送りやる。そして海に居る速開都比咩(はやあきつひめ)が海の彼方へと持ち去ってしまう。さらには気吹主(いぶきどぬし)が根国底の国へと「気吹放(いぶきはな)」つとある。つまり風によって遥か海上の彼方へと「罪」は送られるわけである。


ただ、これらの神々を『古事記』や『日本書紀』には見ることはできない。『古事記』『日本書紀』にある神話には、大和王権の系統と、出雲王権、筑紫王権の系統の神話が採録されていて、これらを大和朝廷の神話へと統合しようとしている。『日本書紀』は公的な歴史書であり、そこでは『古事記』に詳しく出ている出雲王権の神話をあまり重視していない。現在、古代史の研究は『古事記』『日本書紀』を「記紀」と記す程に重視している。『古事記』は天武天皇の命により太安万侶(おおのやすまろ)が編纂したとされているが、私見によればこれは太家で編まれたものと考えるのが妥当である。それに先行するものとして蘇我家で作られたのが『天皇記』『国記』であった。これらは蘇我氏が攻められて館が焼けた時に『国記』のみが持ち出されたとされている。つまりこのことで分かるのは、これらの史書が各豪族家で編纂されていたという事実である。また『日本書紀』には「一書曰(あるふみにいわ)く」と神話に多くの異伝のあることを示しており、本文として採用したストーリーとは別の展開が多く記されている。このひとつに『古事記』と似た内容があることからすれば『古事記』のように個々の家で編纂された史書が三十巻ほどもあったことになる(「一書」はその内容から三十種類があったと思われる)。このように大和朝廷は各地の王権の神話や祭祀を統合することでその霊的な権威を取り入れようとしたのである。


大祓祝詞の収録されているのは十世紀半ばに成立した『延喜式』であり、この頃には大和朝廷の東北経営も胆沢(いざわ)城(岩手県奥州市)のあたりまで進んでいた。このあたりは日高見の国の範囲内であったと思われる。こうして東北侵略の拡大と共に大祓祝詞も日高見の国から大和朝廷へと取り入れられて行ったものと思われる。


ただ大祓祝詞は大和朝廷に取り入れられた時に一部が改作されている。それは大和朝廷で伝承されていた神話が「天」のこととして加えられたのであった。大和朝廷では各地の神々を「国津神」とし、大和朝廷の系統のそれは「天津神」として分けている。これと同様のことが大祓祝詞でも「国津罪」と「天津罪」として示されている。ちなみに「天津罪」は、

「畦放(あぜはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、串刺(くしさし)、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、屎戸(くそへ)」

であり、これは速須佐の男の命が高天原で犯した「罪」である。一方の「国津罪」は、

「生膚断(いきはだだち)、死膚断(しにはだだち)、白人(しらひと)、胡久美(こくみ)、己(おの)が母犯(おかせる)罪、己が子犯(おかせる)罪、母と子と犯罪、子と母と犯罪、畜犯(けものおかせる)罪、昆虫(はうむし)の災(わざわい)、高津神(たかつかみ)の災、高津鳥(たかつとり)の災、畜仆(けものたお)し、蟲物為(まじものせる)罪」

で、これは「記紀」などの神話には見ることができない。おそらくは日高見の国の神話によるものであろう。ここで問題にしている「天津祝詞の太祝詞事」も「祝詞」「祝詞事」と「祝詞」が二重になっているのは「天津」が後に加えられたためと思われる。つまり本来は「太祝詞事」だけであった可能性があるわけである。


大祓祝詞を唱えていて調子が良いのは前の文を受ける形で後の文が連なっているからである。それは、

「安国(やすくに)と平(たいら)けく所知食(きこしめせ)と事依(ことよさし)し奉(たてまつり)き」

とあるのを

「かくのごとく依(よさ)し奉(たてまつり)し」

と受ける形である。つまり

「安らかな国として、争いもなく治まるようにとお願いを申し上げました」

「このように申し上げると」

という流れになっているのである。他には、

「天降(あまくだし)依(よさ)し奉き」

「かくのごとく依(よさ)し奉(たてまつり)し」

で、これも、

「天から降りて下さるようにお願い申し上げた」

「このように申し上げると」

となっている。

煩雑になるのでこれ以上は引用しないが、同じようなパターンが五回出てくる。つまり合計七回このような言い方で文を繋いでいるわけである。つまり「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」も「かく宣らば」と受けるのは、この祝詞の特徴的な形であるが、その間に特別な呪文のような文言の入る形は他にはないのである。


また「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」の前には、

「大中臣(おおなかとみ)天津金木(あまつかなぎ)を本打切(もとうちきり)末打断(すえうちたち)」

とある。これは大中臣氏の神官が「天津金木」という聖なる木の元の方と、末の方を切るという所作をしてこの祝詞を唱えることが示されているのであり、こうして唱えられる「天津祝詞の太祝詞事」は全体の構成からすれば大祓祝詞そのものをいうと考えるのが妥当である。


日高見の国は滅んでしまったわけであるが、大祓祝詞を見るとその原因に遺伝子異常の蔓延があったようである。そこでは「生膚断」「死膚断」「白人」「胡久美」などが発生したとある。これらの詳細は分からないが、何らかの皮膚に異常が出ているようである。そして、この原因が近親相姦にあったことが予測されており、また呪術でもあろうか(蟲物為罪)とも考えられている。世界のいろいろな文明で突如、それを担った人々が消えているのは、こうした遺伝子の異常が何らかの原因で発生したためではなかろうか。こうした社会の衰退を目の当たりにした日高見の国の人は懸命に大祓祝詞を唱えたのであろう。またそれを恐れた大和朝廷でも、この祝詞を重視したものと思われる。


現在、科学の発達により遺伝子を操作することが、いろいろな分野で行われている。こうしたことが「罪」となって社会の衰亡を招くことを大祓祝詞は教えているのかもしれない。


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