丹道逍遥 呂純陽の三字訣(精気神)

 丹道逍遥 呂純陽の三字訣(精気神)

呂純陽の三字訣とは内丹の修行において最も重要なのは「精、気、神」であるというもので、これはまた三宝と称されることもある。そして「精、気、神」をあるべき状態にさせるのが「静」であるとする教えである。つまり「精、気、神」は「静」をもって養われるということである。朱子は儒教に内丹瞑想が取り入れられた「宋学」で最も有名な大学者であるが、朱子は初学者の心得として「半日静坐、半日読書」を説いていた。こうして静坐と読書を習慣化することが儒学研究のベースになるというのである。「精」とは運動エネルギーのことで、「気」は感情エネルギー、「神」は思考エネルギーである。静坐によって養われるのは「気」の感情エネルギーで、これにより喜怒哀楽の情を安定させることができる。つまり「静」を得ることができるわけである。仏教で「定=静坐」を重視しているのも感情エネルギーを安定化させるためで、これを「煩悩」から脱するとしている。


読書で養われるのは思考エネルギー(神)である。読書は儒教で特に説かれることで「四書五経」などは必読とされている。ただ、ここでいう「読書」は「神」を開くものとしての「読書」である。よく「本を読んでも内容を覚えていない」として効果的な読書法などが説かれることも多いようであるが、思考エネルギーを鍛える方法としての読書はあくまで「思考」を鍛えるものであり「知識」を集めることを意図してはいない。現代の教育は多くの知識を整理して覚えることを訓練することを意図しており、それは必ずしも「思考」の訓練と同じではない。「知識」の訓練において往々にして「思考」は、はなはだ非効率ともなり得る。実際のところ儒教には「知識」の集積としての学習と「思考」の鍛錬としての学習があり、前者を代表するのが科挙であった。科挙は「受験勉強」の最も洗練された形でる。それは膨大な「知識」を整理して記憶することが求められた。こうした過程において知識そのものに疑問を抱く必要はまったくない。一方で特に宋学が出てからは、こうした科挙のための儒教学習の無意味さが問題となるようになる。


「精」である運動エネルギーを開くのは導引(体操)である。これは儒教では重視されていないが、道教では静坐と共に導引を行う人は少なくない。またただ体操というだけではなく護身にもなるので武術が鍛錬されることもある。こうした場合でもそこには「静」がなければならない。余りに攻撃性を重視して怒りの感情をあえて喚起させるようなものは好ましくないわけである。「静」とは何かといえば、それは「自己との対話」である。これは読書においても同様で、本を読むことを通して「自己との対話」がなされなければ思考の鍛錬にはならない。速読や騒がしいところでの読書は適していないといえよう。それと同様に導引も静かな心身の状態も含めた「環境」で行われるべきである。太極拳の練習で音楽を流して行うのはその意味では好ましくない。意識が外に向かって「静」を失ってしまうからである。


静坐の秘訣に「還精補脳」があるが、これは「精」のエネルギーを浪費することがなければ「神」の活性を促すことができる、ということである。これは健康であれば、いろいろと考えることもできるが、病気の時にはとてもそうは行かないことをしても首肯できるものであろう。そしてこれ内丹では「精」と「神」とが関連していることをいうものでもある。「精」と「神」をつなぐのが「気」であり「気」をして「静」で養うのが静坐なのである。つまり「静」を練るのに最も適しているのは静坐であって、それにより「静」が養われると、それを得て開かれた「精」のエネルギーが、また「神」にも影響をあたえて「静」の状態を開くことでその活動を助けることがでくる、というわけである。


呂純陽は「精、気、神」を開くことで「不老」を得るともしている。「不老」はともかく心身ともに元気になることは間違いあるまい。そしてそのためには静坐で「感情」のエネルギーを安定させて、導引(武術)で「精」のエネルギーを開き、読書で「神」を鍛錬することが大切となるのである。


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