丹道逍遥 「天の叢雲九鬼さむはら龍王」の示すもの

 丹道逍遥 「天の叢雲九鬼さむはら龍王」の示すもの

天(あめ)の叢雲九鬼(むらくも くき)さむはら龍王は「合気道の守護神」として植芝盛平が感得したものであるが、そこに見られる「天の叢雲」は天の叢雲の剣、「九鬼」は九星気学などでいう中央と八方、そして「さむはら」は戦中に流行っていた弾除けの呪いであり、それが龍王として統括される形になっている。天の叢雲の剣は八岐の大蛇の尾から見つかったものであるから、これと龍王とがひとつのものとなっているということは、この龍王は「八岐の大蛇」ということになる。そうであるなら天の叢雲九鬼さむはら龍王を感得したことは「退治」された八岐の大蛇の「復活」と考えられるわけである。ここで思い出されるのは、大本教でいう「国祖隠退」の教えで、大本教では艮の金神(国常立の命)を「隠退」させられた神としている。これはいうならば「封印」された神ということである。大本教はそうした神を「復活」させて地上に天国を作ろうとしている。そうしたことから盛平の天の叢雲九鬼さむはら龍王も封印された「八岐の大蛇」を復活させることを意図した神格なのではないかと思われるのである。


八岐の大蛇の「退治」が「封印」であったなら、それを盛平は合気道によって「復活」させようとしていたことになる。ただその意図は必ずしも生前に明らかにされることはなかったが、この神は合気神社で祀られている。また合気神社にはそれを「退治」した速須佐(はやすさ)の男(お)の命(須佐之男大神)もあわせて祀られている。またこの神もまた大本教では「隠退」させられた神とされる。盛平は合気神社を「合気道の産屋」とも言っていた。これは合気神社に祀られている神々が、これから働きを持って行くという意味であろう。それは言うならば八岐の大蛇の復活ではなかったか。密かに盛平が合気道の裏の仕組みとして作り上げた「合気神社」は、そのような隠された意図を示すものなのである。


八岐の大蛇の「復活」とは、秘儀としての「八岐の大蛇」神話の復活とすることができよう。ここで重要なことは八岐の大蛇は八つの頭と一つの尾を持つ蛇であるという点である。この八つの「頭」とは八つの「意識」のことであり、それは別に「八意思兼(やごころおもいかね)の神」として神格化されている。八岐の大蛇の「八つの頭」とは実際は「八つの心」のことなのである。この八意思兼の神は『古事記』や『日本書紀』では「八意」が消されていて単に「思兼の神」とのみある。「八意」が記されているのは『先代旧事本紀』で、この文献は平安時代の始め頃に著されたものとされ『古事記』や『日本書紀』とは別の系統の伝承を多く含んでいる。そうしたことからすれば「八意」が付くのは出雲系の伝承によるものと考えられよう。また古代日本で「八」は「多くの」という意味でもあるから「八意」は「いろいろな心の働き」のことと解しても良い。それは『日本書紀』に思兼の神を「深く謀(はか)り遠く慮(おも)ひ」と説明していることでも分かる。つまり八岐の大蛇とは「深謀遠慮」といった心のいろいろな働きを象徴した蛇であったわけである。そうなれば、こうしたいろいろな(あるいは八つの)心の働きの蛇の尾にあった「剣=天の叢雲の剣」は、それと深く関係しているものであることが理解される。


こうして見ていくと八岐の大蛇の伝承が、出雲地方に伝えられていた「心=魂」に関する秘教的な儀式であった可能性が濃厚であることが分かろう。そこでは足名椎(あしなずち)の命と手名椎(てなずち)の命の娘が八人居て、それを毎年、八岐の大蛇に差し出していたとある。蛇に供される娘は、女性原理と男性原理の融合が毎年行われていたことを示している。そして、それは八回で成就するものであったわけである。当時の出雲では修行者が一年毎に「聖なる結婚」をして新たな深い心身の統合を得ていたものと思われる。そして最後の統合が行われる時に速須佐の男の命が現れるのであるが、ここで「蛇」が殺されるには「蛇=穢」から浄化された「魂」への変容を示していると考えられる。つまり八岐の大蛇の神話は、この秘儀を経て穢れた「魂」が聖なる「魂」へと変容することを教えるためのものなのである。蛇を「退治=浄化」するこの時に八つの酒甕が用意されて、蛇を酩酊させているのは「三昧」に入ることを示していよう。これをヨーガでいえば、一年毎にチャクラが開かれて最後には「無念無想」の「三昧」に入るということになる。速須佐の男の命が、この時に助けたのが奇稲田姫(くしいなだひめ)であるが、その名は「不思議なほどの豊作をもたらす田」を意味しており、最終的に成就されるのは、不可思議な叡智(奇)をもって豊かな実り(幸)をもたらしてくれる心身の働きであったわけである。


速須佐の男の命は姫を「櫛=くし=奇」に変えて髪に挿すのであるが、興味深いことに奇稲田姫は「櫛」に変えられたから元に戻されたという記述が見られない。そして速須佐の男の命は、この後「結婚」をしていると思われるが、その相手は明らかにされてはいない。物語の流れからすれば奇稲田姫と結ばれたことになろうが、それを明示する記述がないのである。ただ歌として「八雲立つ 出雲八重垣、妻籠(ご)みに 八重垣つくる その八重垣を」とあるのみで、ここでは「妻」を八重垣、つまり何重にも巡らせた垣根の奥に「籠」めたとしている。これはまさに「聖なる結婚」をいうものである。それが分かるのは「籠」という語においてである。これは奇稲田姫が速須佐の男の命と「一体」となっていることを示している。そうして見ると「八重垣」は「八意(思兼の神)」であり「八岐(の大蛇)」であることが見えてこよう。つまり奇稲田姫の「奇」とは不可思議な働きを持つ奇魂(くしみたま)であり、「稲田」は豊作でこれは幸(さち)をもたらす幸魂(さちみたま)ということになる。つまり八岐の大蛇の秘儀とは奇魂と幸魂の活性化であったわけなのである。


八岐の大蛇の秘儀をヨーガ的にいうならば、八回の「聖なる結婚」は八つのチャクラ(ヨーガでは七つであるが)を開くことであり、それらの根源にある天の叢雲の剣はクンダリニー・シャクティということになろう。速須佐の男の命が八岐の大蛇を斬って尾から剣を得たことはクンダリニー・シャクティが開放されたことを示している。そこに制禦できない心の働きを示す「蛇」は梵我一如の三昧境において「人」として統合されることになる。出雲ではこの時に奇魂と幸魂が発動すると考えたわけである。奇魂は霊的な豊穣さ、幸魂は物的な豊穣さを示すもので、それは心と体の浄化でもある。これを合気道でいうなら心身の統一ということになる。心身の統一は盛平が晩年、用いるようになった語であるが、これと同じことが天の叢雲九鬼さむはら龍王として示されているわけである。


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