宋常星『太上道徳経講義』第六十五章

 宋常星『太上道徳経講義』第六十五章

(1)天の道の行われるままに万物は運動している。聖なる徳が修せられて万民はそれに従っている。これが「大順」である。順というのは「理」に順ずるのである。それは従うということである。

(2)「大化」は変化する「理」のことである。「理」そのものは変化しないが「理」はその働きにおいてはそれぞれに変化をしている。こうした「理」を悟り得れば天地と自己の「徳」とを一体となすことができる。日月とその光を等しくし、四季のままに生活して、鬼神の吉凶に煩わされることもなくなる。全てが円滑に動いてあらゆるところに及んでいる。つまり「理」とはこうしたものなのである。

(3)修行者は「聖賢」を手本とするべきである。そうすることは「天地」を手本とすることになる。天地と聖賢は一体であり一「理」なのであって「道」とも一致している。

(4)聖賢の心を知ることは、天地の心を知ることである。そうなれば「道」が「道」であることの所以を知ることができる。つまり「道」とは常にそうあるべきことなのであり、永遠に変わることのないことである。「道」を天下に用いれば、それはあらゆるところに及び、これを身に用いれば、生涯変わることなく「道」を実践して行くことになる。

(5)つまり「道」を実践することおいて「徳」は求めることなくして得られる。

(6)「道」は「玄」より出ている。そうであるから「大」を求めることがなくても自ずから「大」なるべきは「大」となるのであり、「知」をもって国を治めることがなくても自ずから国を治めるための「知」は得られるのである。

(7)ここで述べられているのは、まさにそうしたことである。この章では古い時代の諺を引用して、今のことを述べようとしている。そうすることで見習うべき深淵なる「玄徳」の奥義を明らかにしようとしている。それは後の人の参考とさせようとしているのであり、国を治めようとする人は、よく大いなる道に習って行うべきであって、そうでなければ天下の民をして「樸」なる素朴な状態に返すことはできないのである。


1、古には「善は道の実践である」とされていた。それは民を「明」とすることではなく、それを「愚」とさせることなのである。

(1−1)「道」は天地に行われている。このことをよく考えるに、天地は「道」のあることを知ってはいない。そうであるからよく長く、かつ久しく存在し得ている。

(1−2)「道」は万物に存している。しかし万物はそれが「道」を有していることを知ってはいない。そうであるからこそ永遠に生成を行い得ているのであり、永遠に存在し得ているのである。

(1−3)天地、万物は、そこに「道」があるのを知ることはない。そうであるから、その下にある民が「道」のあることを知ることはない。

(1−4)有為をして行うとすれば、それは国政にあっては何とかして巧みな「法」を用いて統治をしようとするようになろう。それは一時的にはうまく行っても有為であるから、そこには何らかの矛盾が生じている。結局はそれが問題となってしまう。

(1−5)上にある統治者には、下の人々の暮らしをよく知る聡明さが求められるが、実際に民を治める時にはあまり細かなところまで管理をしようとするべきではない。ある程度は余裕を持つことで上下の心は通じ合えるのであり、共に秩序を維持できるのである。

(1−6)しかし民が余計なことも知るようになれば、かえって政治は混乱してしまう。これらは全て民が余りに多くのことを知り過ぎることによって生まれる弊害である。古の聖人は民に多くのことを知ることを良しとはしなかったし、統治者も有為である「智」をして民を治めることを適当とは考えていなかった。

(1−7)それは民を「愚」とせしめよとの教えである。そして、それは無為をして統治を行うということである。こうして民を「樸」なる素朴な状態へと返すことができるのは統治者に「良知=自然によって得られる智」が働いた結果である。

(1−8)偽りではなく真に帰する。それはまさに本来あるべき心のあり方(性)に返ることである。そうなると君臣、父子はその関係にとらわれることなく、天のあるがままであって適切に保たれている。そうなると天下、国家は共に無為へと向かう。そうなれば、よく「道」も行われるようになろう。そうであるからここでは「古には『善は道の実践である』とされていた。それは民を『明』にするのではなく、それを『愚』にさせることなのである」とあるわけである。

(1−9)人が生まれるのは天の命によるが、その本源はよく分からない。智慧、思慮をしてそれを知ろうとして誤った考えを抱いてはならない。そうで無ければ見聞きしたことにとらわれることはなく、寂然たる境地を明らかに悟ることができよう。そうなれば天の命の根源のことなど深く考えることもない。

(1−10)つまり智慧や思慮をあまりに働かし過ぎると、結局は真実が何かよく分からなくなってしまうのである。そうであるから無為自然にしていて天徳が明らかになれば、自ずから「智」も生まれて来る(良知)のであり、知識も適度に得られるようになる。

(1−11)こうしたことを知らなければ、よく有為による間違った知識を使ってしまうことになろう。そうなれば自然のままの矛盾のない状態を得ることはできなくなってしまう。

(1−12)見るべき、聞くべきの「理」をよく明らかにするには、見ない、聞かないの「理」がよく分かっていなければならない。

(1−13)また治国、修身は、こうした「智」を用いて行われるべきなのであるが、そうでなければかえって本質を見失ってしまうことであろう。

(1−14)「愚」とは単に無知蒙昧というのではない。それは本当のことだけを知っているということであり、あるべき(素朴な)状態にあるということである。妄りに「智」を用いることなく、あえて聡明さを求めることがなければ、君臣、父子はそのままにあるべき状態にあるのであり、家でも国でも天下でも共に憂いも患いもない世の中になり得るのである。

(1−15)悪巧みをしようとする時には、よく考えて行うものである。たまたまそうしたことがうまく行くこともあるかもしれないが結局は問題が露呈してしまうであろう。それはあえてよく考えて行うのであるから「明」である行為といえよう。

(1−16)しかし、よく「愚」かさをもって「道」を行ったならば、それはすべからく「道」の実践になる。「愚」かさをもって「徳」を建てようとすれば、あらゆるところで「徳」は実践される。国を治めるにしても「愚」をもってすれば国はよく治まるものである。これを身において修すれば、修まらない身というものはない。古の聖人は「愚」をして民を治めていたのであり、それを実践していたのである。


【補註】民を「明」とさせるのではなく「愚」とさせることで統治がうまく行く、というのは当時の諺であったのであろう。つまり統治者は「明」で民衆を「愚」とすることで統治が容易に行えるというもので、これは法家的な考え方といえるかもしれない。老子はこれを「明」は有為による「智」であり、「愚」は無為の「智」であるとする。そして全ての人が「愚」とならなければ世の中はうまく治まらないと考えている。もともとは「民」に限定されていた「愚」を全ての人に拡大したところに老子的な考え方が反映されている。


2、民を治めることが困難であるのは、民に「智」が多すぎるからである。

(2−1)太古にあって民は「嬰児」のようであった。世間は純朴であった。

(2−2)統治者と民衆とは子が無心に親を慈しむのと同じような関係であったので国家もよく治まっていた。しかし後に統治者は有為をして民を治めるようになった。時代を追うごとに有為の「智」をしての統治が深まって行ったのである。そうして民をして意のままにしようとした。

(2−3)ただそのようにしようとしても統治は困難となるばかりであった。そうなると統治者の心は揺れ動いて、有為の「智」の巧みさにさらに頼ろうとするようになった。こうした聡明さを用いようとする者は、一家でも一国でも、それを用いようとする自らの才能に溺れている。

(2−4)そうなると欲情の赴くまま、純粋な「樸」なる性を喪失してしまう。または上の者がそうであれば、それは下の者を騙して統治しようとすることになる。嘘偽りをして治めようとするのである。そうなれば民も偽りを行うようになるので風俗は日々に乱れて、君臣の間に誠が失われてしまう。

(2−5)上も下も共に相手を騙そうとするようになる。こうなれば統治は困難である。ここにある「民を治めることが困難であるのは、民に『智』が多すぎるからである」とは、このような意味である。


【補註】ここでの「智」は先の「明」と同じで有為の「智」である。ここで説かれていることは先と同じことであるが「明」「愚」ではなくあえて「智」を用いているのはまた別の諺であったためと思われる。


3、そうであるから「智」をもって国を治めようとしても、「智」は国の「賊」であるから、「智」をして国を治めることはできないのである。国の「福」と国の「賊」が分かればそれを共に手本とすることができる。

(3−1)大いなる「智」は根本であり、無妄はその現れである。それは「理」のままに行われる。そうであれば、どうして国政に害があるであろうか。

(3−2)ここで「智をもって国を治めようとしても、『智』は国の『賊』である」とされているのは「明」であることによる弊害を述べているのである。それは自己の考えへの奢りであり誠実さを欠いた私的な知恵といえる。これを基準として行動すれば、そこに国は乱れることになるであろう。また、これを倫理的な場面で用いるとすれば、それは倫理的ではあり得ない。これを家や国、天下において用いれば燃えているところに麻布を掛けるようなことになる。かえってその混乱(火)は燃え上がるのであり治まることはなく、害はさらに拡大することになろう。そうであるから「国の『賊』」であると述べられている。

(3−3)つまり老子は有為の「智」をして国を治めることは、まさに国の「賊」であるとしてるのである。こうした巧みに「智」を用いることが、どういったことであるのかがよく分かっていれば、それは国の「賊」であることが分かるであろう。

(3−4)国を治めるのには、無事、無為でなければならない。決して有為において「智」を用いてはならない。

(3−5)民をして安らかに暮らせるようにさせるには、暮らしを楽しくし、十分に食べることができるようにしなければならない。それには私の「智」を用いてはならない。例え民のことを常に思っていたとしても有為の「智」をしてどうこうしようと考えてはならない。

(3−6)政治が乱れるのは、天下の人が太平を享受したいと思うもののそれが「無事」において実現されることを忘れてしまっているからである。これでは国にとって良いことではない。こうしたことが「『智』をして国を治めることはできないのである」とされている。

(3−7)往々にして人は「福」と「賊」とが分かっていないようである。そうであるから何が国政において「賊=害」となるかも分からない。また何が国政において「福」となるかも分かっていない。もし、こうした「福」と「賊」とが分かっていれば、つまりは国政において「賊」は除かれて行くことになるであろうし「福」はもたらされることになろう。

(3−8)およそ有為の「智」を用いれば、民をして暮らし難くさせてしまうものである。何がそこで失われているのかをよく見れば、そうした「智」をあえて国政に用いようとはしないであろう。そうして民の暮らしを乱そうとはしないであろう。

(3−9)何が為されるべきかをよく考えて「賊」となることは行わない。これが民をして「福」をもたらす根本になる。それが「手本」となるわけである。反対に民の「賊」となるのこともまた「手本」となり得る。「手本」とは「用いる(手)べき根本(本)」ということである。全ては根本とそれを用いることに尽きているわけである。そうしたことを「それを手本とすることができる」としている。


4、手本とし得るものは、これを「玄徳」という。「玄徳」は深淵なものである。これは(一般的に考えられている)あるべき(状態)に反している。そうであるから「大順」へと至るのである。

(4−1)「智」を用いても、用いなくても、それらは共に「手本」となり得る。それは国を治め、天下を治める「手本」となるだけではなく、一切の事における「手本」ともなり得る。

(4−2)あらゆる事において、この二つの「手本」がよく分かっていれば、これらは共に見るべき「手本」たり得るわけである。

(4−3)それはあらゆる物事のあるがままであって、あらゆるところに見ることのできるものでもある。そして全くこれを離れているものはない「至誠の無」なのである。

(4−4)実際に行われている太極の「理」は、無為、自然であり、自然の真の営みの大いなる道である。そうであるからそれを「玄徳」という。

(4−5)それは名もなく、形もないものである。それがどうであるかを考えることはできない。ためにこれを「玄」という。

(4−6)およそ「徳」の行われることが浅ければ、それは「道」から外れているので、何が行われいるのかは聞くこともできるし、見ることもできよう。また小さな「徳」であっても、それが触れることのできるものであり、言うことのできるものであるならその「徳」は「道」そのものではなく真の「徳」ではあり得ない。

(4−7)そうではなく聞くことも、見ることも、触れることもできない「徳」こそが「道」に準じた「徳」なのである。そうであるから老子は手の届かない「深淵」なるところに「玄徳」の実際を見ているのである。

(4−8)つまり「深遠」なる「玄徳」の妙は、美しいとされる物も、その美しさにとらわれることはなく、その実態をありのままに見ることのできる不可思議さにあるのである。

(4−9)つまり「智」ということで、それを考えるならば「智」を用いないのが「玄徳」といえる。

(4−10)物を得れば利益が生まれる。しかし、これは「玄徳」の実践ではない。利益が得られるのは良いことなので、それは「玄徳」が実践されているからと思われるかもしれない。しかし、そうではないのである。そうしないことこそが「道」そのままなのであり、自然のままの「大順」なのである。

(4−11)「道」の本質は「自然」である。「玄徳」は「自然」そのものである。「道」は「無為」の根本であり、「玄徳」は「無為」の応用そのものである。

(4−12)民の心の「徳」は純粋なる「自然」である。

(4−13)国政においては「自然」であり波風の立たない「清平」であるのが「徳」である。

(4−14)天下はすべからく「一」なる心によっている。「一」なる心はすなわち「一」なる「徳」でもある。これがつまりは「大順」であることなのである。

(4−15)これはすべからく「玄徳」の「深遠」さによらなければ得られるものではない。ここに「手本とし得るものは、これを『玄徳』という。『玄徳』は深淵なものである。ここで(一般的に考えられている)あるべきに反するものである。そうであれば『大順』へと至ることになるのである」とあるのは、こうしたことの奥義が述べられているのである。


〈奥義伝開〉民衆にいろいろなことを知らせない方が、うまく統治ができるとする考えは現代にもある。古代の諺もそうした教えであったのであろうが、老子はこの「愚」を自然のままの「樸」として解する。それなら統治者はどうかといえば、老子からすれば本来統治者は「道」に順じているから統治者たり得ているのであるから、統治者は民を感化して「樸」の状態へと返す働きがあるとする。第二十五章では「道」は「天」「地」「王」に等しく行われているとしている。しかし実際の王はそうではない。そうではないので民は「大順=無為自然」へと感化されないでいるわけである。「智」には有為の「智」と無為の「智」がある。前者は「害」をもたらすが、後者は「福」をもたらす。ここで「害」を「賊」としているのは働きがあるからである。有為の「智」には何らかの意図的な働きがある。そうしたことが積極的に「害」をもたらすので、これを「賊」としているわけである。一方で無為の「智」は自ずから幸福になって行くので、ただ「福」とのみ記している。ただ自ずからというのが「大順」である。また「徳」にも有為の「徳」と無為の「徳」があり、無為の「徳」が「玄徳」と称される。


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