道徳武芸研究 中国武術と呼吸力
道徳武芸研究 中国武術と呼吸力
1980年代あたりに「気」のブームがあった。太極拳や「神秘の治療法」としての気功が知られるようになった頃である。また武術周辺では触れることなく「気」によって相手を倒す演武が注目されたりもした。そこでは日本文化の基調をなすものとして「気」がある言われたのであるが、そこで問題となったのは「気は物質か」という点である。気功では科学的には充分に説明できないとはいえ何らかの人体から発せられるエネルギーが「気」であると見なすのであるが、日本では合気道の「気」や芸能などでいう「気」は特に物質的なものとは見なされていなかった。そして結局は「気」を物理的に捉えるか、観念的に捉えるかは、中国と日本との文化の違い、というあたりに落ち着いて行ったように思われる。
しかし今から考えると中国でも「気」は、何らかの生命エネルギーを曖昧に捉える概念(天地の気や浩然の気など)としてあったのであり、それをあえて科学的な「物質」として限定的に扱うものとして新たに提唱されたのが気功における「気」であったのである。そうであるから、これは中国の文化史的な視点からすれば「曖昧なエネルギー」ということでは日中で大きな差異はないのが実際である。また気功では、宗教的あるいは秘境的なエクササイズがベースになっていて、それから運動的な要素だけを取り出して、呪文や神仏などのような神秘的な観念などを除いて再編成した結果、心身のバランスを適度に保つことが難しくなり「偏差」という弊害に悩むことになっていた。
気は音読みでは「き」であるが、訓読みでは「いき」となる。つまり「気」は「き」と読んで日本の文化にそのあり方を考えるのではなく「いき」としてそれを見るべきなのである。それをあえて「き」をベースとして日本文化に何等かを探ろうとする方法論そのものがまちがっていたわけである。「気が合う」というのは「息が合う」と言い換えることができるように日本では「いき」という語で中国の「気」に近いものを表現していたのである。それで合気道では「気を合わす」とあるものの実質的には「気」ではなく「呼吸力」を重視しており、呼吸投げは多いが合気投げは殆ど語られることがないということも、こういった日本文化の特徴に原因があるのである。日本における「気」の文化を考える場合には「いき」をベースとしななければ多くのものを見失うことになろう。
「いき」の観点からすれば大東流の「合気上げ」と合気道の「呼吸(力養成)法」とは似ているが実は全く別の鍛錬であることが分かる。「合気上げ」は相手の手首の関節を極めることでその中心軸を制禦して重心を奪う技術であるが、一方の「呼吸法」は吸う息で相手と一体化して(合気、引力)、そして吐く息で力を出して体勢を崩している。こうした「呼吸力」の養成は合気道だけに限ったものではない。形意拳にも見ることができる。三体式である。三体式は相手を補足する「鷹捉」の鍛錬で、これが見出されたことで形意拳は高度な武術と見なされるようになったのであるが「鷹捉」はまた「合気」のことでもある。三体式では始めに腕を上げて攻撃を受ける段階で息を吸って、掌を打ち下ろす時に吐いている。これはまさに合気道の「呼吸法」と同じである。
太極拳ではラン雀尾に太極拳の極意が示されているとされて「太極拳の総手」といわれるのであるが、ここでも腕を上げる「ホウ」と、下げる「リ」があって、合気道の「呼吸法」と等しい呼吸の鍛錬が含まれている。八卦拳では羅漢拳に挑打があり、腕を挑(かか)げて攻撃を受け(吸)て、打つ(呼)ことを特別に練る。ちなみに挑打は、八卦掌のどの門派にも共通してある単換掌と同じであるが、それを呼吸を開く方法として鍛錬できている派は少ないかもしれない。こうして呼吸を練るのは、動作と呼吸とを一致させるためであり、そうすることで意識と動作がひとつになり最も有効に心身の力を使うことが可能となる。
植芝盛平が「禊」というのは心身を使う上で力の「ロス=穢」を無くすことを言っている。心身を最も効率的、合理的に使うことで「ロス」を無くすのが「禊」なのである。そうして得られるのが「呼吸力」である。そうであるから「呼吸力」が出されるのが「心身統一」の状態にある時となる。盛平は「禊」から「呼吸力」「心身統一」と合気道の奥義をいろいろに述べているが、それらは全てここに述べたような呼吸をベースとして意識と動作を一致させることにあったのであり、表現は違っていても言わんとする状態はひとつであったのである。