宋常星『太上道徳経講義』第六十四章

 宋常星『太上道徳経講義』第六十四章

(1)天下のあらゆる事は、自然の「理」によっている。「一」の「理」をもって一貫しているのである。天下の万物は、自然の「性」によっている。「一」に「性」をもって成り立っているのである。自然の「理」にある物は美しい。人は自然の「性」によっている。そうであれば、その「性」は全く善なるものなのである。

(2)自然の「性」は太虚と等しく、欠けたところがない。時間も空間もなく円滑に働いていて、何らの例外もありはしない。人為の入る余地はない。もし少しでもそうしたことがあれば私欲が生まれることになる。少しでも作為があれば、つまり天の「理」はそこでは通じていない。

(3)そうなれば、あらゆるところで余計な行いや妄想が生まれることになる。私欲が生まれれば、すべからく、そこに自己や他者が介入することになる。こうした時は人は自己の中に自然のままの心の働き(性)を持っていたとしても自然清浄の境界が自己の内外にあまねく働くことはない。

(4)あらゆることについてこだわりを持ってはならない。およそ思いの動くところは好ましからざるものとなる。それは自然の「性」ではなく物欲となり、妄想による行いが生ずるもとになる。つまり物欲をして行ったならば「性」の働きは抑えられて、我欲による心の働きのみとなるのである。これをどうして自然ということができようか。

(5)そうであるから道を修行しようとする人は、自然の「性」を求めるべきである。私欲が生まれない前の境地を求めるのである。そうすればそこに自然の「性」の発動を知ることができよう。ただ「性」は見ることもできないし、聞くこともできない。無欲であり、無為でなければ分からない。本来、心と「性」はひとつであるが、それは現象(事)と道理(理)とすることもできる。老子は「間違うその原点に立ち返れば」と教えているが、ここで「立ち返る」と言っているのは個々人の有する善なる「性」に返るのである。

(6)またそれはまた「性」を「見る」ということでもある。万物の自然の「性」を「見る」のであり、これが自己の「性」に「立ち返る」ことになる。自己の善なる「性」に、もし立ち返ることがなく、それを見ることがなければ、行為の根本が間違ったものになる。そうなると濁った源流から流れる水が清くあることはできないように行為の全般が間違ったものとなるのである。そうであるから優れた修行者は、正しい思いをして行為をするのであり、適切な機を得て実行するのであって、こうした自然でなければあらゆる行いは為されるべきではない。

(7)自然の実際の「理」によらなければ、一言も発することはないし、終日なんらの為すこともない。また、そうした境地にあればとらわれることがなく行うことができる。あるいは「終日」語っていたとしても、それが意図して為されたものでないから「終日」語っていたとは自覚しないであろう。こうなれば言っても言わなくても同じであり、その全ては天の理にかなっていることになる。世の人は、よくこうしたことを理解し得ているであろうか。これは「理」をよく悟れば「性」のままに行動できるということである。

(8)ただ一般的には得られた物も失い易いし、失敗もし易いであろる。どうしてか。この章で述べられているのは「無為、無執」の大切さである。聖人は「無為、無執」であり、そうであるから万物が自然であることを見ることができるのである。つまり難しいとか易しいとかの区別を持つことはないし、事が成るとか成らないとか思うこともないのである。もし、そうで無ければ、あらゆるものはあるべき姿で存することができない。そこには必ず失敗も生じることであろう。もし執着が生まれていれば、そこには失う恐れがあることであろう。しかし「無為、無執」であれば、これは聖人と同じく、そうしたものにはとらわれることがないのである。


1、ただ安らかであれば、何かを所有するにしてもそれは容易に行われ得るものである。

(1−1)静かで、あえて事を為すことがないのを「安らか」という。「何かを所有する」とは自分のものにすることである。

(1−2)人において「目」は見ようとするであるし、「耳」は聞こうとするものである。「口」は言葉を発しようとし、「身」は動こうとする。「心」は思うものであり、安静である時は極めて少ない。つまり「安らか」であるのは極めて難しいわけである。

(1−3)内に思いが発することがなければ、外のものを意識することはない。そうであるから安らかなる時が訪れれば、心は澄んで何らの思いの生ずることもない。しかし機縁があったならば、そこに意識が生まれることになる。そうなると容易に行為が生まれる。つまり外的なものにひかれて、情欲が動き出すわけである。

(1−4)人々が何かを得るべく心を動かすようになれば国家が乱れる始める。そうした時に賢人は野にあって、朝廷は邪な役人ばかりになる。人々の生活は安らぎを欠いて国政も安定しない。そうなれば上の者は下の者を治めることができない。それは「左手で物を持てば、つまり右手は空いている」のと同じで、上と下、左と右は、互いに関連しているのである。また右手で持っている物を左手に持ち替えることは容易である。つまり何も無い方に物を持ち替えることは可能であるのであって、もし他の手にも物があればそれは不可能となるわけである。


〈補註〉ここは「それが安いものであれば手に入れ易い」と読まれるべきであるが、宋常星は「安」を「無為」と理解している。無為自然であれば、自然に持つべき物は手に入る、ということである。


2、その兆しがいまだ実現されていなければ謀を実行し易い。

(2−1)物事の始まりは、これを「兆し」という。「謀」とは考えである。

(2−2)物事が始まらない段階では、そこに是非や善悪を見ることはないし、それがどうなるかも分からない。何も始まっていない時が「無事の始」である。つまり「未発の先」ということである。

(2−3)「未発」ではあるが、そこから物事が起きるのは我に意図があるからである。この時に思いが起っているからである。いまだどうするかが決まっていない時に「謀」がなされているわけである。

(2−4)ただ、この段階ではそれが良い結果をもたらすか、悪いかは分からない。そうであるからどのようにも考えることができる。

(3−5)そうでないのは事が既に始まっている段階である。そうなれば失敗の不安が生まれることもあろう。否定的な考えがいろいろと出て来ることもあろう。そうなると「どうしようか」と考えなければならなくなる。

(3−6)ここで述べられている「その兆しがいまだ実現されていなければ謀を実行し易い」はこのような意味である。


3、それが脆弱であれば分離し易い。

(3−1)得やすく、謀をしやすい。「どんなことでもやり易い」というを物の観点からすれば、脆弱であれば分離し易い、ということになる。分けるとは物事が分断されるということである。

(3−2)ただ硬い物は鏨(たがね)を入れようとしても分断させるのは難しい。磨こうとしても(塊を粉に分けて変形させるのは)容易ではない。

(3−3)心が動き(統一を欠いて千々に乱れてしまえば)機が熟しても、選択肢が多くてどう行動して良いか分からなくなり進退きわまってしまう。

(3−4)物が形を持っていなければ、それは脆弱であるといえる。それは柔らかくて、いろいろなことをしても跡が残ることもない。これを打っても、そのままで、どうなることもない。修行をする人は、こうしたことをよく理解できているであろうか。

(3−5)智慧を使えば自己の「性」が自然であることが分かる。そうであるから(「脆弱」つまり何もしない「無為」であれば自然に本来の「性」が開かれて)あらゆる欲を断つことが可能となるわけである。そうしたことを「それが脆弱であれば分離し易い」としている。


4、それが細ければ拡散し易い。

(4−1)得やすいもの、謀をしやすいもの、こうした自在に変形する状況を改めて物にあてはめて考えてみるなら、細かなものは拡散しやすい、ということになろう。また、これは拡大しやすいというこでもある。

(4−2)しかし「拡散」はきわめて難しい。ただ物を「消滅」させるのは容易である。しかし拡散させるのには心が動いてしまえば、どうすることもできなくなってしまう。意図的に事が行われてしまうと、(一定の方向性が生まれて)「拡散」することはできなくなってしまうのである。

(4−3)しかし物事が形になっていない段階であれば、どうであろうか。物が微細であるというのは、小さいということである。微細な物であれば、それを除去しても痕跡を残すことはない。小さい物なので簡単に無くなってしまうことになる。

(4−4)これはまさに人の欲望の生まれ始めた時と同じである。(小さな欲望は簡単に除去できるので)天の「理」の本来に復しやすいのである。そうしたことを「それが細ければ拡散し易い」と言っている。

(4−5)これまでに「所有し易い」「謀をし易い」「分離し易い」「拡散し易い」の四つが述べられているが、全てはひとつの「理」に帰する。人はよく「無欲」「無為」をして事の始まる前の(混沌とした)状況を養うことができる。それは「自然」であり「容易」なことでもある。つまり小さな事から初めて大きな事を遂げる。軽い事から初めて重い事を達成する。そうすれば、やり易いわけである。


5、いまだ為されていない行為は実現していない。いまだ治められていないことは、それは乱れることもない。

(5−1)ここで述べられているのは、難易は一つであるということである。およそ「所有し易い」「謀をし易い」というのは、物事が始まっていない時に言えることである。そうした時には、何らの形も生まれてはいない。生成の機が熟していないのである。こうした時には、欲望も生まれてはいない。

(5−2)そうではあるが、この段階でも天の「理」は完全に働いているとはいえない。天の「理」は自然であれば完全である。そうした状況で物を行えば、そこに危うさはない。しかし兆しが有れば、そこには何らのもの(有為)が生じていることになる。そうなってしまえば物事を成し遂げるのは容易ではない。こうしたことを「いまだ為されていない行為は実現していない」としている。

(5−3)「分離し易い」「拡散し易い」のは、いまだ混乱が生じていない時のことである。混乱が生まれてしまえば邪な行いが正しい行いに勝つことは難しい。外的なことと内的なこととを「一」つにすることはできない。こうした時に、これを治めようとするならば努力をしないことである。そうすれば「一」に心は整うことになる。

(5−4)(意図をして)分離することが無ければ(自然の状態であるので)、あらゆる「理」は成就する。例え物事が乱れても、それを治める働きが自ずから生まれる。脆弱であれば反対の堅固が自ずから生じることになる。

(5−5)微細な物もそれを積み上げれば大きな物となる。治めようとすれば治まめることの困難さが生まれてしまう。そうであるから「いまだ治められていなければ、それが乱れることもない」とされている。

(5−6)ここでは乱れていない(自然な)状況のあることをよく知らなければならない。混乱が生まれても、自然のままにしておけば、それは治まってしまうものなのである。つまり努力することなくして、大きなことが成し遂げられるのである。あることが生まれれば混乱も生じよう。治めることが難しい程の混乱であれば、それはどのように無理をしても治めることはできないものである。ただ無理をしないでそのままにしておけば良いのである。


6、両手で抱える程の木も、ごく小さな種から育っている。九層もの高台も、土を重ねるところから建てられる。千里の彼方に行くのも、一歩を踏み出すところから始まる。行為しようとすれば失敗の可能性があるし、執着すれば失う可能性が生まれてしまう。

(6−1)ここで述べられているのは、例えをして事がなる前の状態を明らかにしようとしている。それは事を治めるのは乱れる前(には自然の正常な状態があったこと)を知れ、というのと同じである。

(6−2)一抱えもある木は、それが天まで届く大木であっても、あるいは雲を突くような九層の高台であっても、それらが星の高さを越えることはない(のは道理である)。

(6−3)千里の彼方に行こうとすると、川を渡り、山を越えて、長い年月がかかることであろう。それは、どのような大きな木でも一日で育つものではないのと変わりはない。それは育つべくして始めて大きく育つのである。九層の高台も、すぐにはできない。建つべき条件が整って始めて建つのである。

(6−4)壮大な建物も、土台の土を積むところから始まっている。千里の道も、一歩を踏み出すところから始まる。歩き初めは、ただの一歩を踏み出すだけである。小さな芽吹きがあるだけである。そして後には大きく育つわけである。

(6−5)土を積むことが高台の土台となる。ごく短い一歩から遠くへの旅が始まる。これは微細から顕著へと至るということである。小が重なって大となる、ということである。無を本にして有が生まれることである。そうした過程を経ることで人は事を為すことができる。得ることができるのである。

(6−6)ただ木は大きくなれば終には伐られる日を迎えることになろう。建物が高く建てられてしまえば、それは倒壊の可能性が出て来よう。遠くに出るとしても何れは目的地に着く。そうすると旅は終わってしまう。つまり有為であることは終には終わりを迎えるわけである。

(6−7)何かを得れば必ず何かを失うものである。こうしたことが分かれば、何にかを行ったならば混乱を避けることのできないことが分かろう。何かを行い、治めようとすれば、そこには混乱が生じることになる。失敗に至ることにもなる。

(6−8)そのことを「両手で抱える程の木も、ごく小さな種から育っている。九層もの高台も、土を重ねるところから建てられる。千里の彼方に行くのも、一歩を踏み出すところから始まる。行為しようとすれば失敗の可能性があるし、執着すれば失う可能性が生まれてしまう」として詳しく述べている。


7、そうであるから聖人は無為であるのであり、そうであるために失敗することがない。執着することがないから失うこともない。人々が何かをしようとすれば、常に成功することもあれば、失敗することもある。始めと終わりを考えるのではなく、常に始まりであると考えれば、そこには結果としての失敗は生じない。

(7−1)何かを行うことを始めれば、必ず結果としての失敗の危険があることになるわけである。何かを得れば必ず失う可能性が生じる。こうしたことが起こるのは全て有為をして行われるからである。有為をして得れば失う憂いを持つことになる。

(7−2)聖人は有為をして行為をすることはない。行為において思いが生じていないのである。物事の起こるのに従って、ただ自然に対応しているだけである。聖人は物をあるがままに受け入れて接しているのであり、それをそのあり方(性)のままに受け入れて、そのあるべきようにしておくだけであって、そこには何らの意図的なものを設けることはない。

(7−3)あるべきに従って行うだけである。ただ無為である。そうであるからそこには失敗ということも存しない。事に従って行う。それは、あるべきままを行うことである。聖人が何かを得ても、それはそのあるべき(自然のまま)にあるのであり、そこから上下や尊卑が生まれることはない。あえて、それらを意識することもないし、意図を持つこともないで、ただとらわれないでいる。

(7−4)そうであるから(成功することも)失敗することもないのである。世の人は事を行うと常に失敗の危惧を持つものであるが、それはどうしてであろうか。事に従って事に応じる。その全ては「理」に従って行われる(そうであれば成功も失敗も考えることはない)。

(7−5)一方、有為をして事を始めれば、自己の見方にとらわれることになる。有為をして執着すれば、自己の執着にとらわれることになる。そうであれば「成功」や「失敗」を意識することになる。だいたいがこういったことである。そうであるから世の人々は、本来的に終始は無いということを知らないで安易に行動を起こすべきではあるまい。何も考えないで事を始めるべきではない。安易に結果を考えてはならない。そうでなければ事はならない。

(7−6)始めと終わりにとらわれないとは、事を起こす前にその事にとらわれないことでもある。結果がどうなるか等にとらわれないで事を行うのである。事を為そうとする思いが生じない状況では、始めや終わりを考えることはない。無為で始めて無為で終わる。始めに執着は無く、終わりもこだわることがない。そうしたところにどうしてあえて行為が意図されるであろうか。こうして終始とらわれないでいる。そうであれば(成功にも)失敗にもこだわることはない。ここで述べられているのはこうしたことである。


8、ために聖人は欲望を持つことはなく、手に入れにくいものをあえて貴ぶことはない。学んでも、あえてそれを覚えようとすることはない。多くの人の間違うその原点に立ち返れば、そこでは万物は自然であるのを見ることができるであろう。つまりは、あえて行うことはしない、ということである。

(8−1)ここで述べられているのは、聖人の無為の妙である。それをして世の人の戒めとしている。

(8−2)欲とは功名を得るということである。富貴や権力を得ることである。目で見て、耳で聞く。口で味わう。これらは全て欲によっている。

(8−3)聖人は素を見て、朴(樸)を抱えている。虚の境地にあって、静を守っている。およそ欲するところは、全て(我欲ではなく)道によっている。一方あらゆる人は我欲によって行動をしているのであるが、それを認識してはいない。

(8−4)つまり世の人は自己の欲について考えることもないのである。欲を欲として認識することがないのである。しかし聖人はそうではない。これを「ために聖人は欲望を持つことはなく」としている。(8−5)手に入れにくいものは世の多くの人が望むからである。そうであるから貴重であると思われている。そうなると、それを必ず得ようとしたくなる。しかし、それは単に多くの人が求めているからそう思うようになっているに過ぎないことが分かっていない。

(8−6)得にくいものは、また特別なところにそれを求めようとして、いろいろなところを探ってみたりもする。時には他人を害することがあっても自分の欲望を満足させようとする。聖人はこうした物を見ても、それを珍しく貴重なものと考えることはない。そうであるから貴い物とも考えない。今はもてはやされる物でも、時間が経てば顧みられなくなることを知っている。真に貴い物とは永遠に貴いと認められる物である(が、そうしたものは存在しない)。そうであるから「手に入れにくいものをあえて貴ぶことはない」のである。

(8−7)学ぶとは道理を知ることである。しかし世の人の学習は、文の知識、武の知識を覚えるだけに留まっている。そうして出世をしようとする。見聞を広くして、それを何かに使おうとする。しかし聖人は天地に働いている微細な機、陰陽の造化や進退の生ずべき時を知ろうとする。

(8−8)こうした「学習」に特別な秘伝があるわけではないが、これをよく悟っている人は稀である。およそ世間の人が学ぼうとしようとすることを聖人は全く学ぼうとはしない。世間の人が学ぼうとも思わないようなこと、学ぶことのできないようなことを学ぼうとする。これは一般的な学習とは違っている。そうであるから「学んでも、あえてそれを覚えようとすることはない」とあるのである。

(8−9)「多くの人の間違うその原点」は誤解された「聡明」さにある。そこでは(知識があるだけで)機知が働くことがない。そうなると心は迷い、情にとらわれてしまう。あらゆることにおいて外的なことに惑わされて本質である真実を見失ってしまう。あらゆる行為が情欲に引かれて為されてしまうのである。

(8−10)聖人はそうした(知識だけの)「聡明」さを頼むことはない。聖人が求めるのは全くの「樸=自然のまま」に復することである。聖人は全く意図的な考えを巡らすことはない。本来の自己の素朴さに戻るだけである。そうして余計なことを知ろうとはしない。自己の本来の心のあり方(性)のままであれば誤ることもない。そうしたことを「多くの人の間違うその原点に立ち返れば」として述べている。

(8−11)誤りが生ずるのは自然ではない状態においてである。自然であれば決して誤ることはない。万物は自然の「理」によっている。あらゆる人の心もそれによっている。万物は自然の「徳」の現れである。人々は自己の「性」に返るべきであり、人々の心は無欲、無為であるべきである。

(8−12)例え間違っても、間違いそのものが存在しない境地に復するのである。それは自然の「理」と一体となることであり、多くの人の「性」をして、執着も迷いもなくなって、失敗そのものが存在しなくなる境地である。それは自然がそうであるようになるだけなのである。

(8−13)そうしたことを「ために聖人は欲望を持つことはなく、手に入れにくいものをあえて貴ぶことはない。学んでも、あえてそれを覚えようとすることはない。多くの人の間違うその原点に立ち返れば、そこでは万物は自然であるのを見ることができるであろう。つまりは、あえて行うことはしない、ということである」としている。

(8−14)この章では、最終的には万物の自然をよく見る、ということが述べられている。それは言わば自然の「理」を見ることであり、それは「性」を見ることでもある。「性」は自然をしていうならば「天」である。「天」の自然の働きは「道」である。「道」の自然の働きは「太極」である。天地万物で、こうした「理」によらないものはない。

(8−15)「(万物は自然であるのを)見ることができる」とは、こうした「理」を見ることなのである。それは有為によって見るのではない。そうであるから聖人は「為さないこと」と「為すこと」といった区別を設けることがない。「学ぶこと」と「学ばないこと」に差異を感じないのである。「欲」と「不欲」も「とらわれること」も「とらわれないこと」も存しない。つまりは安らかで自然であれば得るべき者は簡単に得られるし、形になる前であれば考えを実行しやすいといったことと同じ、自然であればとらわれが無いということであり、これらは全てあえて為さないということでもある。つまり自然をして天下のありようを見る(知る)わけである。聖人の自己を修める道は、ここに尽きている。


〈奥義伝開〉不敗の境地

この章には「敗」という字が二箇所に出てくる。それは「為すはこれ敗る(「行為しようとすれば失敗の可能性がある」6)」と「聖人は無為たり。故に敗るること無し(「聖人は無為であるのであり、そうであるために失敗することがない」7)」である。つまり絶対不敗の境地とは攻防を行わないところにあるわけである。しかし攻防を行わないと思っていても、巻き込まれてしまうことは避けられない。この時にそれから逃れる「修練」が必要になる。攻防の「修練」は軍隊や警察でも重視されるのであるが、そこには大きな違いもある。軍隊では相手を制圧することを目的としており、その中心は銃などの火器なので徒手の攻防は基本的な知識と体力があれば充分である。一方、警察はただ制圧するだけではなく、相手を傷つけることなく確保する必要もあるので技術の要求は軍隊よりも高いものとなる。これらに対して武術は攻防を避けることを第一とする。その場合には心身にわたる高度な修練が必要になる。「無為」へと至る必要があるわけである。それは大木の「種」、高楼の「土台」を知ることにつながる。つまり攻防が始まる直前にそれを感知して止める技術である。太極拳では「相手が動かなればこちらも動かない。相手が動こうとしたらな、その前に動く」とあるが、まさにそうした「機」をとらえられるように修練をするわけである。そしてこうした「機」をとらえるのには「無為」でなければならない。「無為」であるには心身に「柔」が得られていなければならない。そのためには「静」を知ることが必要となる。


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