道徳武芸研究 八卦拳と「飛九宮」を考える
道徳武芸研究 八卦拳と「飛九宮」を考える
八卦拳には「飛九宮」という九つの柱を立てて行う練法がある(中央に一本、周囲に八本を立てる)。ただ、この練法は八卦拳に限ったものではない。また、これに似た練法に七本の柱を立てる「七星トウ」があるが(四本を並べて、それに続く左右に三本づつ立てる)、これらは共に柱を巡ることで「入身」を練るものとされている(トウは椿の「日」が「臼」の字)。また八卦拳では足裏の感覚を開く練習としてレンガを円形に並べて、その上を歩くものもあるが、これと「飛九宮」とが混同されて映画などでは高い棒の上を歩く鍛錬があるように演出されているが、それは事実ではない。むやみに高い棒の上を歩くのは危ないだけである。レンガの上を歩く練法は、第一に正確に円周上を歩くこと、第二には足裏の感覚を開くことを練っている。レンガは最も広い面とやや狭い面、そして狭い面があり、最終的にはレンガを立てた状態での練習となるとされることが、棒の上での練功というイメージにつながったものと思われる。ただ、これもレンガを立てたて最も狭い面の上を歩くことは危険であるので練習としては行われない。
「飛九宮」は孫禄堂の『拳意述真』でも紹介されている。それによれば斜めに、立てた柱の間を巡るとしており、その間隔を調節して適宜、狭くするとある。つまり飛九宮は「間合い」の練習を目的としているからである。柱の間隔を狭くするのは、鋭く入身をするためである。「飛九宮」には四正四根と四隅四根の練法があるが、これは歩きながら入身をする勢いを打撃に反映させるための練法である。四正根は相手に正面から対して入身をする(直)のであり、四隅根は相手の後ろに回り込んで(斜)入身を行う。形意拳で「飛九宮」を練るとすれば五行拳は四正四根で、十二形拳が四隅四根を練ることになる。八卦拳は四隅四根を主として居る。孫禄堂は剣術も「飛九宮」をして練ることが有効であるとしている。こうした入身は合気道では「表」と「裏」とされている。これが入身と攻撃に共に使えるわけなのであるが「飛九宮」で重要なことはそうした入身において歩法を止めないということである。歩を止めないで攻撃をすることで間合いを自在に詰めることができて、相手からは攻撃を受けず、こちらからの攻撃を当てることが可能となるわけである。
日本の武術で「飛九宮」の練法が行われているのが、幕末に実戦剣術として名を馳せた薩摩の示現流である。同流でも立てた柱(棒)に向かって走って行って、間合いを詰めて、その勢いのまま攻撃をする。示現流では烈帛の気合と共に剣を打ち出すので、その激しさのみが注目されることが多いが、実戦ということからすれば歩みを止めないで打つ間合いの方がより重要であろう。歩みを止めないで相手を打ったとするエピソードは八卦拳の尹福にも伝えているし、程廷華にも同様のエピソードがある。ただ尹福はスタスタと相手に歩み寄ってそのまま打った、とされるのに対して、程廷華は自在に相手を翻弄して打ったとされている。これは方法は違っていても、いずれも歩法を止めないで攻防を行ったことを示している。また合気道の多人数掛けは、次々に攻撃して来る相手を投げるが、この場合には柱ではなく、実際の人が相手となる。間合いの稽古としては、更に興味深い方法といえる。
さて「飛九宮」の「飛」であるが、これは「飛泊」の意味であって九星気学の用語である。九星では中央を「五」として周囲に「一」から「九」を配する。そしてその動きである「飛泊」は「一」から斜め反対側の「二」、そして反対の「三」、そして隣の「四」へと移動して中央の「五」から反対の「六」そして隣の「七」から斜めの「八」そして同じく「九」と移動する。孫禄堂はこれと同じく「飛九宮」でも九本の柱を巡るとしているが、ここで問題となるのは中央の「五」の柱である。この柱を巡るのは一回だけであるし、その他の時には「五」が中央にある必然性はない。加えて斜めの入身を練習するのであれば、中央の「五」の柱は必ずしも必要はない。こうして考えると「飛九宮」は七星トウのような練法ではないのではないかと見なければならなくなる。そこで思いつくのは合気道の数人に囲まれた状態で相手を制する多人数捕りである。
実は飛九星とは、合気道の多人数捕り(周囲を数人が取り囲んで一気に中央に居る人を攻撃する)のような練法ではないかと考えられるわけである。それを飛九宮でいうなら中央に居る人を「五」とし、それを取り囲む「一」から「九」までの八人が一斉に攻め掛かることになる。この時、中央に居る「五」が周囲の誰か一人の攻撃を入身で躱して、その人物を中心に押し込み、包囲を破って残る相手を倒していくわけである。これを形式的に言えば「五」は「一」を倒して「二」「三」と「九」までの相手を制することになる。こうした稽古は柱を用いてはできない。そうであるから「飛九宮」は「九宮トウ」とは言わないのである。また特に「飛」九宮としていることも、各人を飛び回る合気道の練法に近いものであることを感じさせる。この練法は大東流にもあるが、大東流では他に、これも日本の武術には見られない二刀を同時に使う合気二刀剣が伝わっている。こうしたことからすれば、多人数捕りは中国でも失われた飛九宮の教えが残っているのかもしれない(二刀、二剣は中国武術ではよく見られる)。
飛九宮と七星トウの異なるところは「引力」の強調であろう。中国武術では入身は七星歩を用いて行う。七星歩とは斜めに移動して相手の攻撃を避けて反撃をする入身の歩法であるが、まさに七星トウはこの歩法を鍛錬するためのものということができよう。この鍛錬は実際的には斜めの入身を練るのであるから二本の柱があれば可能である。それを七本並べるとするのは七星歩との関連を示しているものと思われる。また理論面からすれば二本の柱を並べてもこれを「七星トウ」と称することは可能で、それは七星トウの由来が七本の柱があるためではないからに他ならない。飛九宮では特に中央「五」への「引力」の鍛錬が欠かせない。これは周囲の人の意識を一点に集中させることで取り囲まれた多人数からのエスケープが可能となるからである。また入身においても「引力」がなければ入身を行うことはできない。その意味で飛九宮はひじょうに重要な稽古法であるといえよう。ちなみに植芝盛平が言っていた「引力」は太極拳では「凌空勁」と称される。またこの勁も触れないで相手を倒す「百歩神拳」のようなものと誤解されていることが少なくない。およそ武術の奥義は合理性をもって考えなければ、往々にして虚妄な世界へと落ち込んでしまう。