道徳武芸研究 八卦拳における牛舌掌と龍爪掌

 道徳武芸研究 八卦拳における牛舌掌と龍爪掌

よく八卦拳を代表する二大弟子とされる尹福と程廷華であるが、尹福が宮廷の護院(警備局)に居て一部にその伝承を残したのに対して、程廷華は民間にあって多くの弟子を育てた。この二人の系統はまた牛舌掌と龍爪掌として特徴付けられている。牛舌掌は五指を揃えて伸ばした形であり、龍爪掌は五指を軽く開らいている。問題とすべきは、こうした違いがどうして生まれたかということであろう。程派の孫錫コンの著書である『八卦拳真伝』には掌形を大写しにした写真(八卦掌法手式図)と廷華の息子である有龍の写真も出ているが、これらにおいても掌形は全く同じではない。本文(八卦掌起式練法)には「人差し指と親指とを丸く張る。親指は内に曲げ、人差し指は反らすことなく、他の指は内に向ける」とある。そして「気が指先に到る」としている。八卦拳において最も重要なのはこれである。八卦拳における掌形は指功を練ることを目的として定められている。これらの違いは、あくまで指功の視点から考えられなければならない。


八卦拳における指功とは指先の感覚を育てることで掌全体から腕までの感覚を育てることを意図している。こうしたことは「腕の経絡を開く」と表現される。中国医学では五指それぞれに経絡という気のルートが通っていると言っており、そうしたルートで気の流れが滞ると心身に不都合が生じるとされる。武術的には皮膚を通しての感覚が鈍り、筋肉の弾性が失われるといえよる。一般に「指功」といえば指先を固めて相手を突き刺すというイメージがあるかもしれない。空手の貫手などはそうした「用法」が説かれたりすることもあるようであるが、指で突くことで大きな攻撃力を得ることは目などの特定の部位を除いてはできないし、そうした場合も特に指先を固めるような鍛錬をする必要はない。また指先に負荷を掛け過ぎると神経にも良くない影響を及ぼしてしまう。指の痺れや肩こりなどが往々にして起こって来るようである。これは指先に負荷を掛けすぎて「経絡」が詰まるからである。また、これを反対に言えば「経絡」を開けば感覚は円滑に働いて鋭敏となるわけである。


指功には感覚を開く鍛錬と指の力そのものを強くする鍛錬がある。これをあえて言うなら感覚を開くのが「龍爪」功、指の力を鍛えるのは「鷹爪」功とすることができようか。鷹爪功の鍛錬には指での腕立て伏せなどがある。これは五指から始めて次第に指を少なくして、最後には一本も指で行う。そうして相手を掴む力を鍛えるわけである。この鷹爪功は実戦に有効で、相手の服でも体でも掴んで瞬時に引き倒すことができるようになる。こうすると相手はバランスを失うことになるので、攻撃のチャンスを作ることが可能となるわけである。一方の「龍爪」功は感覚を開くもので、それには五指を開いて壁などを軽く叩くなどのやり方がある。王樹金も日常的にこうした鍛錬をしていたらしい。五指を開いた龍爪掌は形意拳でも用いられているが、形意拳では親指を外に開くことはない。形意拳の掌形は「ソフトボールを掴むように」とされる。


八卦拳では牛舌掌を用いるのであるが、指功の鍛錬としては扣掌がある。これは親指を軽く内に曲げた形で四指も少し内に向ける。そうして指先の感覚を開くのである。実際に親指を内に曲げることで五指の指先の感覚が得やすくなる。こうした親指を曲げる形は少林拳や空手にも見ることができるが、その場合には親指を深く曲げている。そうすると掌全体に力を込めやすくなるが指先の感覚は生じない。そのため扣掌で親指は軽く曲げるに留めるのである。また、それは拳にした時の親指の位置と同じである。つまり扣掌は掌から拳に変化する中間の手形なのであり、これは八卦拳が「拳」と「掌」とを一連の動きの中で生まれるものと考えていることを示すものでもある。八卦拳では八卦掌で「掌」を使い、羅漢拳では「拳」を使うが、拳と掌とは等しいものとされている。そうした掌と拳との変換をスムースに行う原動力として指功があるのであり、その力は五指の経絡を開くことで得られるわけである。


程派の親指が外を向く龍爪掌でも八卦拳の指功(指の感覚を開く)という意味合いは受け継がれている。『八卦拳真伝』の「八卦掌法手式図」では程有龍の掌形(四指は揃えて親指のみが外に開く)より四指が開いているのは、形意拳の影響であろう。八卦拳では指先に少し力を入れて感覚を得る扣掌の鍛錬を経たなら、力を入れないでも指先に感覚のある牛舌掌をもっぱら練る。八卦拳からすれば龍爪掌は扣掌の鍛錬の形と変化の形である牛舌掌をひとつにした形とすることができる。程廷華はまた羅漢拳と八卦掌との融合も意図していたように思われる。こうした視点からすれば、龍爪掌で四指は開くべきではない。それは四指を開いてしまうと八卦拳の拳訣の「掌心空」が失われてしまうからである。そうなると「掌」と「拳」との変換は難しくなる。形意拳の劈拳などの掌の形はあくまで「拳」の変形であるに過ぎない。形意拳では「拳」をベースとして展開するシステムなのであり、拳と掌との変換が留意されることはない。

思うに八卦掌は「掌のみで闘う」といった妄説が生まれたのは、拳への変換のできない形意拳の影響を受けた龍爪掌が誤って伝えられたことが原因であるのかもしれない。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(3)

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(2)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)