宋常星『太上道徳経講義』(59ー5)
宋常星『太上道徳経講義』(59ー5)
これ以上のものはないとは、限りがないということである。
「重積徳」を行って得られるものは、最上のものである。それはまた「これ以上のものはない」ということでもある。心の徳が実践されるところでは「為して為さざる」「耳に聞かず、目に見ない」といった無為により行為がなされている。それは、高みに立って遥か彼方を見て、大地のその始めも、その終わりを知ることもないようなことである。それは言葉をして表すことはできないし、心をして考えることもできない。つまり「限りがない」からである。天地には限りがない。我が心の徳もまた限りがない。大いなる道もそうである。我が心の徳もまた無窮である。それは陰であり陽であり、出たり入ったりしている。それは造物の働きであり、極まりなく変化をしている。こうしたことは永遠に変わることはない。つまり「無窮」「無極」なのである。しかし世の人はこうしたことを知ってはいない。そうであるからここでは「これ以上のものはないとは、限りがないということである」としている。
〈奥義伝開〉全ては「徳」の実践に尽きるという教えである。そしてその「徳」とは「道」の理解によって為される行いである。老子は「道」を考える場合に、ここでは「極」が分からないのが「道」であるとしている。つまり「規定」されないのが道である、というわけである。キリスト教徒は「聖書」で「規定」され、仏教徒は空や縁起などの教えに「規定」されている。一方で「聖書」に「規定」された信徒は現在の科学や倫理と齟齬をするところのあることに悩むことになる。一部は「聖書の方が正しい」と言うし、一部は修正して「本当はこう読むべき」と現代の価値観に合う「神学」を提唱する。老子はそうした「規定」は必要なく個々人が「善」であると信ずることを行えば良いとする。「極=規定」を決めないというのはそういうことである。