宋常星『太上道徳経講義』(59ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(59ー2)
自分を修して天のままとなる。それは過剰とならない(嗇)ことである。
心を正しくして、大義を明らかにする。そうして世の人々がそれぞれその生を遂げて、本来の心のあり方(性)のままに行動する。これが「自分を修し」ということの意味である。天の道のままに、その理に従う。それは本来の心のままに行動するということである。これが「天のまま」ということになる。「過剰とならない」とは倹約をするということである。心と意識(神)を外に拡散することなく、あらゆることにおいて妄動することがない。これが「過剰とならない」ということの意味である。一方、人を治める道を考えてみるに、法や罰で恐れを抱かせ、徳ということを考えさせない。こうした方法は一見すれば効果的であるかもしれないが、これでは人の恣意的な策略をもって国を治めて天の理を顧みることがない、ということになる。そうなれば人の心も正されることがないばかりか、安定した統治もできないであろう。人を治めるには天の道に則り、その表現としての礼楽や祭儀を疎かにすることなく、天の道のままに至誠で無妄となり、行為においても何ら恥じることはないようでなければならない。およそ正しい礼楽や祭儀は、道を表しているものである。もし単なる形式としてそうしもたことをしたなら誠の心の生まれることはなく、心の境地が道に達することもないであろう。気持ちが道に至ることがなければ天の道と一体となろうとしても、そうなることはない。そうであるから古の聖人は、他人をどうこうしようとする前に自分を修めようとしたのである。天の道につくことなく、人を操ろうとするのではなく、自己を修して「過剰とならない」ようになることである。心を外に散らすことなく、天の理のままに行動する。そうなれば心の徳は純粋なものとなり、その徳は太極と一体となる。自己の本来ある心のあり方(性)は、無極の大いなる道そのものである。それは自ずから広くあらゆるところに及び、徳の力は自ずから窮まることがない。天は高くあるが精神はその上にまで達する。世の人は多いが徳の力はあればあらゆるところに及んでしまう。こうした道を自己に修することがなければ、自分も他人も適切に存することはできない。自己も他人も正しくあるには、天の道につかなければならないのである。道を修する人は、あらゆる行為において天に道にもとることなく、視聴、言動は天の理かなっていなければならない。天の道に準じ、それによって行動する。これだけである。よく自己の欲望を排して恥のない生き方をする。これがつまり人を治める要道でもある。人を治める理は、ここにある。ここに述べられている「自分を修して天のままとなる。それは過剰とならない(嗇)ことである」とは、こうした意味である。
〈奥義伝開〉原文では「治人事天」とあり「人を治めるは、天を事とす」と読める。この「治」は「修」と等しく「整える」という意味であるから宋常星は自己を修することが、国を治めることにつながるとする視点で論を展開している。これは『大学』で知られた考え方であり(もとは『礼記』にある)、よく「修身治国平天下」などと言われている。訳ではその治国や平天下の根本は修身にあるので修身だけの表現としている。そして老子はこうしたことの根源にあるのは「過剰にならないこと」であると教える。これは老子の一貫した根本的な考え方である。余計なことをしなければ自然の秩序が保たれると考える。自然のままということで問題となるのは人が知性を持っているという点である。知性を持つ人間は意図して生活のあり方を変えてしまう。動物はずっと前から自然にあるものを食べるだけであるが、人は自分でいろいろなものを作るようになった。そして本来はできないことの多くを行うようになって来た。老子はそれを完全に排除することはできないと考える。そこで「最低限度」としなければならなくなっていて、理論的には不徹底な側面を持つが、実践ということにおいては仕方がないともいえる。