宋常星『太上道徳経講義』(58ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(58ー4)
禍は福があることで存している。福は禍によっている。それでは結局のところ根本にあるのは禍なのか福なのか。それは禍でも福でも、どちらかに定まったものはないのである。
「禍」とは、不幸であり、恐ろしい出来事を被ることである。「福」とは、喜ばしい良いことを受けることである。「存している」とは、ある事があることで別のことが生まれているということである。「よっている」とは互いが依存関係にあるということである。ここで述べられているのは、つまり禍福といっても、そこにはただ事象があるだけで、それが禍であり、また福であると評されているに過ぎない、ということである。それは禍福が互いに「存して」、それぞれが互いに「よって」いるからである。これを詳しく言えば世の人は、なんとかして福善を得ようとしているのであり、いろいろと策を巡らせてなんとか禍害を逃れようと思っているという背景がある。しかし実際のところ禍福がどのようなものであるのかを知ってはいない。外的なことからすれば禍福が分かれるのは個々人の心の判断によっている。心はあらゆる事を判断する中心であり、善悪の区別も心の判断によっているわけである。心が善と思えば、どのようなことでも善となる。心が悪と思えば、あらゆることが悪となる。これと同様に禍や福の判断も為されている。あることが「存する」ことがあり、それに「よって」禍福は生まれている。こうした視点からすれば、福が生まれる、その原因は心にあることになる。もし心が強く善であると思ったならば、どのような禍であっても福と判断される。そうであるなら禍の兆しがあっても、それを顕在化させないことができるようになり適切な行動がとれるようになる。福を禍に転ずることができないのは、禍の中に福が存していることを知らないからである。それが分かれば禍が福に転ぜられ、福もまた禍へと転ずることがある理由が分かることであろう。こうしたあらゆるものに通ずる「至極の理」は、これをあらゆるところに見ることができるのであり、どこにあってもそれのあることを知ることができる。禍福の根源を考えるに、それは固定したものではない。「定まったものではない」とは固定したものではないということである。禍は心によってそう判断されているのであり、福も同様である。禍が禍であり続けることがないのは禍が固定したものではないからである。福が福であり続けることがないのも福が一定したものではないからである。禍福は「どちらかが定まったものではない」のであり、そうであるから人は禍福が互いに「存して」いる関係、「よっている」関係であることを明らかに知るべきである。それがどのように行われているのかを知りたいと思うのである。そうであるから古の聖人は先ずは自分の「欲」ではなく物事の「利」を考えて、次に謙譲の心を守るようにしたのであり、これが修身の道とされているのである。あえて欲望に盲従することなく、政治を行う。知恵を巡らせて「細かく支配」しようとすることなく、謙虚に政治を行う。思いのまま、情のままではない。そうした生涯を送れば福の尽きることはなかろう。
〈奥義伝開〉ここでは「禍福」次には「正奇」「善妖」が決まったものではないことが述べられる。これは老子の一貫した考え方で、一つの事柄は評価の仕方で全く反対の評価を得ることがあるとするのである。こうした考え方を荘子は「万物斉同」という語で示している。あらゆるものの価値は等しいというのである。しかし道家では「有」より「無」をよく言い、荘子は「死」にこだわって荘子の思想を「死の思想」と称することもある。これは「無」を追究することで「有」に転ずることができるからであり、「死」を追究することで「生」へと転ずることができるからである。人は「有」や「生」を好むものである。そうであるから「有」や「生」を求めようとする。しかし自然の「理」は「有」を求めれば求める程、それは「無」に転ずるのであり、「生」を極めようとすればする程、それは「死」へと転じてしまうものなのである。「万物斉同」は有無や禍福、生死の「超越」ではない。その循環を利用して、より良く「有」し「生」きようとするものなのである。