宋常星『太上道徳経講義』(56ー8)
宋常星『太上道徳経講義』(56ー8)
そうではないと見えても親しい関係になることもあるし、そうではないと見えても疎遠となることもある。そうではないと見えても利益になることもあれば、そうではないと見えても害悪となることもある。そうは見えないのに貴いこともあるし、そう見えなくても賎いこともある。
ここで述べられているのはまさに「玄同」である。それは無と有の奥深い教えである。動や静の奥深い教えである。心は(その本質として)「徳」を持っているが、それを明らかに知ることは難しい。「玄同」の奥深い教えも同様である。心と太極は(「徳」と「欲」のような相反するものを持っている点で)全く同じである。また心と鬼神とも等しく変化をする点では同じである。そうであるから計り知れないのである。それは説明の及ばないものであり、それにより利が得られると決まってはいないし、また必ず害を得ることもない。貴いとは限らないし、賎しいと決まっているものでもない。決まったものがないのが「玄同」の「徳」である。本当の知を持っていて大いなる道と一体となっている人は一方に偏ることはない。そうしたことが「そうではないと見えても親しい関係になることもあるし、そうではないと見えても疎遠となることもある。そうではないと見えても利益になることもあれば、そうではないと見えても害悪となることもある。そうは見えないのに貴いこともあるし、そう見えなくても賎いこともある」として述べられている。「道」を学ぼうとする人は、このような境地に至ることができているであろうか。「道」を得ることができていなければ「徳」も得られてはいない。玄(注 表面的なものの奥にある教え)も得られていないことになる。
〈奥義伝開〉相手と争っているような場合には親しくなることはないように思えるが、争うということは常に相手に接していることでもあるので、状況としては親しいのと違いがないともいえる。それは「疎(遠)」の中に「親」が含まれているからであり、また「親」の中にも「疎」が含まれていると考えられるので親疎は容易に反転すると考える。そもそも全く接触のない相手とは疎遠になろうとしてもなれない。合気道の「転換」とはこうしたことを言っている。攻撃しようと手を出す者も、握手をしようと手を出す者も、「手を出して触れて来ようとする行為」は等しいので、敵意を親しみに「転換」すれば良いと考えるわけである。全く触れて来ようとしない相手では敵意を親しみに「転換」することはできない。この「転換」の機を掴む練習が合気道の引力の鍛錬となる。