宋常星『太上道徳経講義』(56ー7)
宋常星『太上道徳経講義』(56ー7)
こうしたことを「玄同」という。
ここで述べられているのは、これまでの総括である。すでに触れられた「穴を塞ぐ」「門を閉じる」「行き過ぎを是正する」「混乱を正す」「光を適度に落とす」「塵は見えなくなる」といったことと「玄同」とは同じである。また「玄同」であるのは「聖人」が行っていることでもあり、それは世俗の人とは違っている点でもある。「聖人」と同じということは「道」と一体であるということである。混沌としていて一定の形容をすることのできないものである。そこには区別はなく、名も形もない。「道」ということからすれば天下のあらゆる存在は等しいものなのであり、「徳」ということからすれば全ての人はそうした意識を持っているということができる。一見すれば貴賤などの違いがあるように見えるし、賢愚の別があるようでもある。しかし聖人は「道」の視点からこうしたものを見るので、あらゆる存在に区別を見ることはない。「徳」をして人を見れば誰もが等しく「徳」を持っているということが分かる。また「道」と「徳」は同じであるから、結果として全ては等しいということになる。そこに「玄同」の妙があるといえよう。そうであるから「こうしたことを『玄同』という」としている。一般には世の人を見ると同じと見えることもあれば、違うように見えることもあろう。悪巧みと「徳」とは同じとは思えまい。そこには違いあると言わねばならないのかもしれない。こうしたところに「分別」という考えが生まれて来る。個々のものにこだわってしまうと、こうした考え方を捨てることはできなくなる。そうなれば世俗の人と同じである。そうなるとこれは「玄同」とはならない。そうなると、よく「穴を塞ぐ」ことができているといえるであろうか。考え方として「区別」があるのによく「門を閉じ」ているといえるであろうか。外的な影響を受けていて、はたしてよく「行き過ぎを是正する」ことができているといえるであろうか。内的なことだけに留まっていて、どうして「混乱を正す」ことができているといえるであろうか。「道」の理によることがなければ、はんたしてよく「光を適度に落とす」ことができているといえるであろうか。自己を「道」によって養うことができなければ、はたしてよく「塵は見えなくなる」ことができているといえるであろうか。物を通して「玄同」の境地に至ろうとするのであれば個々の物にとらわれないことである。そうなればどのような物も等しく認められるようになる。こうして「玄同」を悟ることができれば、奥深い知を得た人となることができよう。
〈奥義伝開〉「玄同」は荘子のいう「万物斉同」と同じである。ただ老子の「玄同」の方が、一見して違っているようであるものも、その本質においては等しいものである、とする考え方がより強く示されている。これは「太極」も同じで対極にあるものが、実は等しいと考えるわけである。太極拳の場合の「太極」は坎(陰陽陰)と離(陽陰陽)で共に陰陽があるので、これは陰陽の配分が違うだけで等しいものとするわけである。そして等しいから「わかり会える」と考える。つまり「和光同塵」の「和=わかり会える」は「同=等しい」から来ているともいえるのである。人は「同」であるので本質として「和」するものなのである。