宋常星『太上道徳経講義』(56ー6)
宋常星『太上道徳経講義』(56ー6)
光というものを適度に落とすと塵は見えなくなる。
本当の知恵を持つ大いなる道と一体となっている人は「光というものを適度に落と(して)」いる人である。「塵は見えなくなる」とは、道徳や仁義は、詩や書、礼法や音楽に一体となっていて、そうした中に「塵=欲望」も含まれているのであるが、それが顕著になることはないということである。それは顕には見えなくても、およそ道徳や仁義が発動されるべきところであれば、それが発揮して見えなくるのである。こうした道徳や仁義はすべからく人においての「光」ということができよう。功を挙げ、名を高め、富や地位を得る、およそ人々が交わるそうしたところには全てそうした人の「塵」があるといえる。聖人は道徳を身に付けていて、それをよく養っている。心の徳の「光」も涵養していて純なるものとなっている。道徳というものはそれを養わなければならない。そうして人は道や徳と一体となることで悟りを得ることができる。つまり悟りは誰にでも得られるのである。そうであるが、それを得ようとしなければ得られることはない。これは誰においてもそうであるから、我が身においても同様に言えるわけである。ただそれも誰にでも起こるということに安易にこだわり過ぎてもいけないし、特定の個人に起こったということにとらわれ過ぎることも良くない。誰でもということと特定の個人とその他の人とを区別するものではないわけで、そこにおける「光」には何の違いもないのである。それは照らす火も、照らされる火も火に変わりがないのと同じである。これは「塵」も同じで「光」と「塵」の二つのものは混沌とした中に等しく存していて区別をすることはできないのである。そうした「塵」をあえて拒否しないことが「光というものを適度に落とす」である。聖人の心に「塵」が影響することはない。しかし社会と交わって行こうとするならば、世俗の「塵」と交わらないわけにはいかない。そうであるから世俗の「塵」を持っているからといってその人を切り捨ててしまうことはよろしくない。それは、なんとかして調整すれば良いだけのことである。世俗の人も丁寧に対して聖人と等しい善なる心を持っている部分で接する。物に対しても、それに関わらないのではなく、適度に世俗の「塵」にあまり汚されない程度に交わって、そこに誠のある範囲において接する。こうした人や物との交わりにおいても、不善の人を導くやり方はあるものなのである。どのような人にも「情」はある。「情」に感じることを通して道の理にそうように導くわけである。そうして世の役に立てるようにする。これが「塵は見えなくなる」である。今の人を見るに、自己の道徳を充分に涵養しているとは言えない。すぐに善悪を決めつけようとする。それは自己の身心が未だ真に清浄ではないからである。そうして他人を良い悪いと区別したり、あるいは他人が有能であることを嫉妬したり、利益を争ったりしていると、より世俗の「塵」に埋もれて行くことになる。心や情がそうした方向に引っ張られることになる。そうした人は大いなる道の本質が分かっていないわけである。そうではなく他人と自分とに違いがあるとはあまり考えずにいれば、つまりは道に入ることができる。あえて違いを認めるのは、徳があるとはいえない。まさにこのように心身を扱うのである。人も物も共に忘れる境地に入るのである。こうした混沌とした区別のない状態である人を、まさに本当の知恵を持つ大いなる道と一体となった人ということができる。
〈奥義伝開〉「和光同塵」では、塵が舞っている明るい部屋がイメージされている。こうした部屋で明るさを落として行けば暗くなって埃は見えなくなってしまう。しかし明るすぎれば塵は目立つであろう。余計なことは知る必要がないのと同じく、余計な汚れも見る必要はない。本来、人には陰陽がある。純陽、純陰は人の世界ではあり得ない。こうした実際から見れば過度に「塵」を排除しようとすることはむだな努力ということになる。老子は第十五章で濁った水はそのままにしておけば澄んで来る、と述べているが
ここでも同じイメージで語られている。汚れそのものを無くすわけではないのである。それは清濁を分離しただけに過ぎない。世の中の矛盾もそれを全く除くことができない状況にあっては、それが見えなくなれば良いわけである。矛盾が発動しなければ良いのである。争いはそれを無くすことはできない。またそれに勝ち続けることもできない。そうであるなら適度にそれを回避すれば良い。これが太極拳や八卦拳の戦略である。