宋常星『太上道徳経講義』(56ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(56ー5)

行き過ぎ(鋭)を是正すれば、混乱は解消される。

本当の知恵を持つ大いなる道と一体となっている人は、「行き過ぎ(鋭)を是正す(る)」ものである。そうすることで自己の内面を治めている。また「混乱は解消される」ことで外から受ける混乱の影響を正している。「是正」とはあるべき状態にするということである。「行き過ぎ」とは過剰にやってしまうことである。人には機智があるし、刀には切れる刃が付いているものである。しかし、それが鋭過ぎてしまえば、切れすぎて良くないし、機智も過ぎれば正しく行動することはできず、徳性も失われてしまうことになる。そうであるから聖人はただ虚心であらゆることに対応する。そこには全く不適切な言動は見られない。こうして機智を捨てて愚劣であるかのように振る舞うことで行き過ぎを自ら治めて自らを養うのである。これが「行き過ぎ(鋭)を是正す(る)」である。「解消される」とは解きほぐすことである。「混乱」とは紛糾していることである。いろいろと絡み合った物事、整えることができない状態である「混乱」にあって、もしそこに物欲が介在しているならば根本的な認識に誤りがあることになる。そうなれば心の働きを根本的に司っている「性」にも好ましくない影響を与えてしまい、心も乱れるわけである。しかし、道を知る人は、心に欲を持つことはない。性が情に流されることもない。常に虚であり空である。物そのものは欲望に関与することはないのであり、それは心によっている。心を自然のままにしていれば欲望は沈静化する。そうなれば外に欲望によって混乱させられた状態があったとしても、それに紛らわされることは全くなくなる。そうしたことを「混乱は解消される」としている。もし、よく内的な思いを消すことができたならば、外的な係わりを断つこともできよう。そうなれば常に清らかであり、常に静かであることができる。つまり、よく混乱を解消するのは、心身を練ることをよく知る人なのである。


〈奥義伝開〉ここでも老子は単に過度であることによって生じた混乱はそれを無くせば是正されると教えているに過ぎない。過度であることを戒めるのは老子に一貫した考え方である。鋭過ぎる刃を戒める教えは第四章に出ていて、鋭過ぎる刃は折れやすいとしている。またこれは次の「和光同塵」の教えとも共通している。明る過ぎる光もよろしくないというわけである。余りに純粋な生活を求めて僧院や山奥に閉じこもっても、人は完全に一人では生きて行くことができない。適度に世俗(塵)に交わる必要があるのであり、個々人の中においても「塵=欲望」を完全に排除することはできない。あらゆることにおいて「完全」を求め過ぎると帰って不完全へと向かうようになることに警戒しなければならないことを老子は教えている。


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