宋常星『太上道徳経講義』(56ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(56ー4)

穴を塞ぐには、門を閉じるべきである。

もし、修行の功というものを本当に知ろうとするのであれば、それは厳密なものとなろう。処世の道においても世俗と妥協することなく、余計なことを喋ることもない。これが「穴を塞ぐ」ということである。余計なことを言わないで無為で居る。これが「門を閉じる」である。口はいうならば人体の門である。そこから言語が発せられる。そうなれば必ず心や意識(神)が動くものである。もし口を閉じて余計なことを言うことがなければ、余計な言葉が発せられることはない。人体の門である口から言葉は発っせられるわけであるが、大いなる道を深く知る聖人はそうしたことについて慎重である。そうでなければ余計な言葉が発っせられるのを止めることはできない。それを「穴を塞ぐ」としている。人の六根の眼根は見る働きがある。耳根は聴く働きがある。鼻根は息の出入りが行われる。舌根では味わいを感じる。身根からは動きが起こされる。意根は意識をする働きがある。この六門が、適度に閉じられることがなければ、そこから余計なものが入ってくることになる。そうなると六根が汚される。こうした状態で六根からもたらされた情報で意識が形成されると、心の状態は清浄であることはあり得ない。心の本質である「性」と心が分離して、適切に物事を知ることはできなくなる。そうではなく正しい認識を通して大いなる道に入っているのが聖人なのである。そこでは心と性が一体となっていて、妄想が生まれることもない。そうでなければ、あるらゆることを正しく認識することはできなくなってしまう。外的な事柄を正しく判断することができなくなってしまうのである。心が清らかで、性が静を得ていれば、常に門は閉じられている。これは修行をする上で重要なことである。そうしたことを「門を閉じる」としている。修行をする人が、もし本当に六門を閉じることがなければ、神や気を適切に整えることはできない。眼が見ることに過度に執着することがなければ魂は自然に肝に静まるであろう。身体が余計な動きすることがなければ、その意識は自然に脾に鎮まるであろう。意識がもしむやみに働くことがなければ意識は自然に統一されるであろう。そうなれば気も整えられる。そうなれば元精は化して元気になる。元気は化して元神となる。そして元神は混沌へと回帰する。これが三花聚頂である。こうした妙の全ては、感覚器官が適切な働きをすることで実現される。


〈奥義伝開〉ここで老子が述べているのは、穴を塞ぐのはドアを作ってそれを閉めてしまえば良いという単純な道理である。宋常星はこれを瞑想の方法として解説しているが、その説明の大体は止観と同じである。仏教では意識の活動を「止」めることを重視する。一方、儒教や道教では「静」はいうが「止」は語らない。雑念とされるものも放置しておけば良いとして、あえてそれを止めることは不自然であるとする。人が生きている以上、脳の活動を止めることは不可能であるからである。雑念がそれにとらわれなければ、自然にある落ち着き(静)が得られる。老子はこれを「濁った水は放っておけば澄んで来る」(第十五章)としている。八卦拳でも太極拳でも日々やっていれば、そうした境地は自ずから得られるのであって、あまり方法そのものを探っても仕方がない。


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