宋常星『太上道徳経講義』(47ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(47ー1)

天下において大いなるものは、この「一なる身(注 「一」は「道」で「一なる身」とは「道」と一体化した「身」のこと。本来の「身」の意)」以外にはない。天の道の微細なことは「一なる心(注 「道」と一体化した本来の「心」)」以外にはない。心と体が虚にして明(きよらか)であれば、つまりは天の理がそこに現れる。事にあっては、正しきが行われるので、つまりは天下は安らかで静かになる。こうしたことから道は人の「身」に備わっていることが分かるであろう。「身」の外に向かって道を求めようとしても、それは遠く的外れで得ることはできない。徳も、それは「心」にあるのであり、それを外に向かって求めても得ることは出来まい。ここで学ぶべき深い教えは、道や徳が聖人といった人にある、ということである。もし、道や徳を養って不純であったり、ああるいは不十分であるのは「身」の外にそうしたものを求めるからに他ならない。そうであるから大いなる聖者や大いなる賢者は「修己」の功を行うのである。もとより道は、それ自体を見たり聞いたりすることはできないが、「修己」の徳をやしなって心の根源である奥深い「性」の働きを知ることができたならば道も徳も完全なものとなる。古今東西の「造化」の働きをよく悟り、天下の難事も、それが生じる前に、明らかに知ることができるようになる。また物事の軽重や物事の成否が分かり、人事の禍福も知ることができる。陰陽、吉凶の起こり、古今の盛衰、治乱も明らかとなる。それは天下に一貫した道があるからで、それは顕界や幽界にも等しく働いている。もし道を悟れば、世の微細なことまで分かるようになって、あらゆることの始まりも終わりも知ることができるようになる。それは、しかし知識による知見ではなく、外に出なくても外の様子が分かったり、窓から覗かなくても自然に外のことが分かるような道による「知見」なのである。この章では道と我が身とが一体であることが述べられている。


〈奥義伝開〉ここでは「知」の形はひとつではないことが述べられている。それは「広さ」と「深さ」である。孔子もこれについては『論語』で「学びて思わざれば」あるいは「思いて学ばざれば」として注意を促している(為政第二)。孔子は、学ぶだけ(広さ)で考える(深さ)ことがなければ理解が浅くなってしまう(「罔」くらい)とし、考えるだけで知識が足りなければ思い込みに陥りやすい(「殆」あやうい)と言っている。学校教育などは大体が「広さの知」によっている。多くの情報を早く処理できると良い成績が取れる。しかし「知」の形はそれだけではなく「深さの知」のあることを忘れてはならない。「深さの知」が学校教育になじまないのは評価が難しいからである。「広さの知」はテストなどで簡単に評価できるが、「深さの知」はそうしたことができない。またそれは個々それぞれに深さがあるので尚更である。老子は特にそうした個々人の思索の深まりを重視している。


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