宋常星『太上道徳経講義』(49ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(49ー2)

聖人には決まった心のあり方というものはない。多くの人の心をその心としている。

聖人の「性」は太極そのものであり、聖人の心は、天地のすべての徳と等しいものである。そうであるから全く偏りはないし、滞ることもない。時に応じて理によってそれは働いている。すべてが臨機応変に発動されるのであり、そのために「決まった心のあり方」というものはない。それは曇りのない鏡のようで、人々の心をそのままに写していて決して、その一部だけを写すということはない。そうであるから多くの人の心を自分の心とし得ているわけである。こうしたところに固定されていない心の奥深さがある。そうしたことが「聖人には決まった心のあり方というものはない。多くの人の心をその心としている」と述べられている。「多くの人の心」は誤りのない天の「理」と等しい。そうであるから「善」である。これが私欲と等しいものであれば「不善」となる。聖人は個々人に応じて教えを説いて、その心を導くのであり、そこには自分へのこだわりも、相手へのこだわりもありはしない。自分にも、相手にも偏ることはないのである。多くの人々の考えることを聖人も考えている。多くの人の失敗も聖人は自分のこととして受け止めている。つまり、多くの人の「性」と聖人の「性」を別のものとして考えてはいないということである。道の修行をしようとする人は、自己と他人を区別することがないであろうか。そうした区別の心を排してこそ、適切に物事に接することができる。ここに迷いの心は自然に起こることはない。相手の心は「善」であり、自分の心も「善」である。自分の心は「信(まこと)」であり、相手の心も「信」である。そうなれば永遠に迷いの心が生ずることはない。迷いとは相手を疑うところに生まれる。もし、自分と相手とで違いがないとしたならば、そこに疑いは生まれず、迷いも生じない。そしてあらゆる人の心が等しいのであれば、つまり自分の心は、そのまま聖人の私情、私欲のない心と等しいということになる。これもまた聖人が「多くの人の心をその心とする」ということである。


〈奥義伝開〉老子の見出したのは真理の普遍性である。人や物は個々それぞれに個性を有しているが、それらの根底には「道」という普遍的な法則があると老子は考えた。そして「道」という視点からすればあらゆる人は等しい存在であることが見出された。また人も物も、「道(道理、合理性)」によって動いている等しい存在であることが分かった。荘子はそれを「万物斉同」とした。つまり聖人の教えは、個々人が既に有している「道」を言語化しているに過ぎない。それは誰でも発見し得るものなのである。こうした考え方は仏教にもあって「独覚」といわれる。それは誰でも追究をすれば真理を見出すことができるというものである。つまり究極的な「真理」は普遍であるから、それを見い出せば釈迦と同じ悟りを見出すことが出来る、ということである。


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