宋常星『太上道徳経講義』(49ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(49ー1)

古の聖人君子は、天の働きを受け継いでその立場としていたが、その立場とは「道」である。天の働きの優れた働きは「徳」である。「道」が存していれば、必ずそこには「理」が存している。「徳」があれば、必ず「善」がある。太極がいまだ陰陽に分かれていない時、そこにあるのは「無名の始め」である。太極が陰陽に分かれた後は、陰陽が天地の間に働いている。天地の万物には、それぞれに「理」があり、これを持たないものはない。たとえ「無」や「空」であっても、それぞれに「理」の「善」があるのであって、それを有していないものはない。もし聖人の「道」が行われないならば「理」の働きは明らかにされなくなって、天下の大本が立たなくなる。人の心に私欲は横行して「性」の中に本来的に有されている「善」が失われてしまう。そして「不善」を為してしまうのである。そうなれば世間によくある他人を騙して利益を得ようとする俗情が生まれてしまい、そうなれば他人を信じることはなくなってしまう。そうであるから聖人の「道」は、天下において行われるのであり、君臣、父子の間にも「道」は天下に行われている。そうであるから聖人の「徳」も天下に行われているのであり、そうなれば三綱五常の徳が実践されることとなる。つまり聖人は大公無私の教えを下しており、それにおいて天下の人の誰しも「善」に導かれない人は居ない。また聖人の心は、天にかかる日月のようでもあり、その光の及ばないところはなく、あらゆるところを照らしている。聖人の「徳」は、天地の間にあって天の気と等しく、その働きの見られないところはなく、その「善」でないことはない。こうして見てみると、万民の「性」は当然のことに「善」なのであり、万民の心も当然のことながら「信(まこと)」である。天下の人は、こうした個々人の集まりであって、万民の心も、こうした個々の人の心の集まりである。民が「道」や「徳」を重視することがなければ、国においてもそれらによった政治が為されることはない。つまり聖人の「道」や「徳」をして国を治めることがなければ、どうして適切な統治を行い得るであろうか。この章では、聖人の区別をしないことが述べられている。それは善を忘れ、悪をも忘れてしまって、「己」にとらわれることなく、「人」にもとらわれることがない。こうした境地はまた統治の「道」でもある。


〈奥義伝開〉ここでは「善」や「信」を実践する聖人の「心」が特別なものではないことが述べられている。およそ人は誰も等しい存在であるが、時に「善」や「信」を見失ってしまうことがあると考える。そうであるから悪や偽といったものは本質的には存在していない。それらが出て来るのは私欲によって「善」や「信」が抑圧された時であると考える。老子は第十五章で濁った水の例えを出して、濁った水は静かにしていれば濁りは沈んで清くなる、と教えている。このように水そのものが濁っているのではなく、そこに濁りが加えられたことで濁ってしまうのである。これを人で言えば「性」そのものは「善」であり「信」であるが、これが私欲という濁りによって悪や偽りを「心」は犯してしまうわけである。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)