宋常星『太上道徳経講義』(48ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(48ー5)

そうであるから天下は、常に「無事」を基本として「有事」に対するべきなのであり、そうでなければ天下を取ることはできない。

「天下を取る」とは、天下を思うままに統治することではない。もし、そうであるとするならば、ここで述べられていることの本義から逸脱することになろう。先には、損じて損ずることが述べられており、そして無為に至るとされていた。つまり「道」とは「無為の理」のことであることを知らなければならない。日々に損ずることがなければ、その奥義を得ることはできないのである。知識の集積としての「学」を通してでは「無為の理」を知ることはできない。日々に益することの本義を知ることはできないのである(注 益することの本義は損することにあるため)。損することは「無為の理」をして行われる。つまり「道」に順じて為されるのである。益するのも「無為の理」をもって行われれば、無為を学ぶことができる。「道」であっても「学」であっても、共に「無為」をしてそれを行う。そうであるから他の事でも当然のことに「無為」をして為されなければならない。かつて、よく天下を取った人たちは、損して損ずることに努めていた。民の力を労することなく、民の財を費やすこともなく、重い刑罰を科すこともなく、法令で縛ることもしなかった。ただ「無事の治(注 無為をして統治すること)」を実践していたのである。天下を取るのも「無為」をしていた。そうなれば人々の心の徳も欠けることもなく、人々の「性理(注 自然と一体となった心の本質的な働きの理)」も乱れることがない。こうした状態で天下を取る者は「損するの道」によっていた。そうであるから「天下は、常に『無事』を基本として」とあるわけである。もし、損して損することがなければ、あるいは民の力を労し、民の財を費やし、刑罰を科して、法律で縛ることになる。それは「有事の治(注 有為をして天下を治めること)」である。天下を取るのに、それに執着して、それを意図して行っては「無為の化(注 無為をして天下のことに対処する)」の境地に入ることは決して出来ない。こうしたことは全く好ましいものでもない。それは損して損することができていないからである。こうしたことを「『無事』を基本として『有事』に対するべきなのであり、そうでなければ天下を取ることはできない」としている。この「無事」ということを考えてみるのに、これはつまりは「損ずるの道」である。「有事」は「益するの道」である。ここに述べられている「天下を取る」とは、つまりは天下を「無事」で「損する」ことをして取るということなのである。「天下を取ることはできない」とは、つまりは天下の「有事の益」を取らない、ということである。天下取るに際してもし損して損することをしなければ、国は日々に栄えて行くことはないであろう。しかし「有事」をして政令を頻発し民を混乱させたらならば、天下は日々に乱れて行くことであろう。「有事の益」とは、最終的には「有事の損」となる。道を学ぶ者は、こうしたことの深い意味をよく認識できているであろうか。それを知るとは、損することを知るわけであるが、それは「情」や「欲」を損することである。誤った考えを取り除いて正しい思いを抱くようにすることである。世俗のことをよく見てもとらわれることなく、それが夢や幻のようなものであることを悟るのである。損して損するのは、また「酒」や「色」「財」などもそうである。これを取り去ってしまう。そして純粋なる一念をして、世俗の汚泥の中に蓮華のあるのを見出す。そして真実の悟りを得ようと思い、それを悟って、実践しようと願う。十二月には梅に雪が掛かるが、それは冬である「雪」の降る中にあって春である「梅」が咲いている自然の風景である。これは日々に損じて、損じ尽くして再び温かな季節が巡ってくることである。それは何かが意図してそうなっているのではない。「欲」が浄化されたならば、欲望に捕らわれまいとしなくても、天の理は純粋に現れ、欠けることがない。こうして冬のさなかに一片の春の光明(注 梅の花)が発現される。「法性(天下の理の根本)」にあっては、太極が常に存在している。それは我が身においても同様である。もし、これを悟ることがなければ、天下としての我が身を治めることはできなくなってしまう。


〈奥義伝開〉最後の「不足以取天下」は、ここでは「そうでなければ天下を取ることはできない」と一般的には読まれているが、「不足であることをして天下に処するべきなのである」と読みたいと考える。一般的には「無事」つまり「無為」でなければ天下を取るに足りない(ふさわしくない)とするのであるが、私訳では「有事」(有為)、「無事」(無為)のフレーズと、天下のフレーズを分けて、「不足」つまり「無為」をして天下に処するとする。天下を統治するとしたならばそれはごく稀なケースとなる。そうであるから「取」を捕まえる、つまりあらゆる世間の事象に対する、といして、それには「損するの道」つまり「不足」をして対しなければならないとの教えと解したのである。


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