宋常星『太上道徳経講義』(48ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(48ー4)

無為であっても為すべきことで為されないことはない。

これは、これまで述べたことを受けての教えである。これまでは損じて損じて無為に至ることが語られていた。こうした無為の妙は、土や石といったものにもある。つまり、物は全て(自分で何かをすることのない)無為にあるわけである。こうした無為は「動の中の静」であり「静の中の動」でもある。またそれは「虚の中の実」であり「実の中の虚」でもある。また「色の中の空」であり「空の中の色」でもある。そして「有の中の無」であり「無の中の有」でもある。こうした「無為」は、それを定義して語ることはできないが実際にあるものとして信じられている。意図して行うことはできないが行っているものでもある。思うことなく為してしまうものなのである。そして、それは「清静自然の道」である。この「清静自然の道」は「無為」であり自然の中に見ることができる。これは奥深いの上にも奥深い教えであり、不思議な上にも不思議な教えであるが、無為ではあっても為さなれるべきことは全て為されているのである。それは誰が命令しなくても四季が移ろうのと同じで天の無為である。そこにあって四季は滞りなく移り変わっている。また地は動くことなく万物を生み出している。地もまた無為であってあらゆることを行っているのである。人も「無為にして為すべきことを為さないことのない理」を悟ったならば、それは天や地とその「徳」を同じくすることになる。「性(注 心の本質)」にあって、万物の造化が、心において覚醒されることとなる(注 自覚される)。天地と無為を等しくすれば、天地と同じく為すべきことで為されないことはなくなる。我が無為が、天地の無為と一体でなければ、我の無為は天地の無為と同様に為すべきことを全て為すことはできない。こうした無為を「性」に求める。それを心に問う。心に徳(注 「徳」は無為を実践することで得られる)への悟りが得られれば、これを実践で修行する。そうすれば家は整うし、国も治まる。国が治まればそれぞれの国が安泰となるので天下も安泰となる。こうしたことが「無為であっても為すべきことで為されないことはない」なのである。今、修行をしている人は、よく損して損するということが分かっているであろうか。それは「父母の生まれる前」(注 無極)を知るということでもある。生まれる前でまだ子供としての形もないような時は「天地の始め」である。そして形を持って生まれると「名は万物の母」(第一章)であるということになる。しかし、それらは「無為」において為される。「無為」にあって思いも及ばない不可思議な出会いがあって、父母の「精」が通じる。そこにあっては、為されるべきことの全てが為されており、父母の「精」の感応がある。「動の中の静」はまったくの「無為」であり「静の中の動」もまたまったくの「無為」である。そしてそれは天地と等しい境地でもある。つまり天地の造化と等しいのである。子供を生むという「造化」は個々人によるものであるが、それは天地の「造化」と同じく「無為」によっている。この章を読むのであれば、こうしたことをよく理解しておかなければならない。


〈奥義伝開〉「父母未生の前(父母未生以前)」は禅の公案でもあるが、これは「無極」のことである。父母が「太極」でここから物質的なものが生み出される。老子の言葉では「天地の始め」が「無極」で「万物の母」が「太極」である。そして物が生み出されればそこには「名」が付される。我々は「学」により最も合理的な答えを学ぶことができる。しかし、それは目的への先鋭化でもある。しかし真の「学」ではその反対のことも視野に入れる。これが「損」である。先鋭化したものを損なうもののあることを知る必要がある。それはそれがこの世の真実の姿(太極)であるからに他ならない(上下、男女など対立するものが併存している)。そして、それらをバランスよく用いるのが無為の道である。先鋭化も非先鋭化にもこだわることなく最適な方法に依らなければならない。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)