宋常星『太上道徳経講義』(48ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(48ー2)

学ぶとは日々知識を増やすことであり、道を修するとは日々物事を損することである。

「学」を為す。「道」を為す。これらは何かをしようと志すという点では変わりはないが、やっていることには違いがある。「学」を為すのは、多く聞いて、多く見ることによる。「道」を為すのは、聞くこともなく、見ることもない。多く聞いて、多く見れば過去の出来事に通じることができるし、現在の事象をも広く知ることができる。古今東西どのようなことが起こっているのかが分かる。聖賢の記したものを読み、天下の本を読み尽くし、天下の事を究め尽くす。広く関心を持ち、卓越した見識を有する。一つを学べば、また一つ新しいことを知る。こうした学びは十分に意義のあることであり、有効であるとすることができよう。そうしたことを「学ぶとは日々知識を増やすことであり」としている。聞くことも見ることもなく、文字を追うこともしない。聡明であることも求めないで、愚かで劣ってるように見える。不器用で何の考えもないようでもある。私欲や情にとらわれることなく、むやみな思いを抱くこともない。世俗の欲に染まることはなく、心を静めて「中」に帰する。「反樸の道(注 成長ではなく生まれたままの状態へと戻ろうとする道)」を求めて、不合理な行動をすることもなく、不合理な思いを持つこともなく、ひたすら「聖人清静の理」を修する。こうして心を整えて、「天地無為の道」を体得しようとする。徳を養い、益を損じて、道の学びとする。「益」を「損」ずること一分か、十分か。それは十分(すべて)である。人情や欲望、明利や栄達、そうしたものを求め続けるのは、全く誤った考えにとらわれているからである。そうであるから「道を修するとは日々物事を損することである」とする。道の修行をしようとする人は、必ず「損」を修しなければならない。学ぶことの弊害は、ただ「益」にある。どのような行動をするべきか、それを「学」ぶことによって知るのと、「道」を修することで知るのとでは大きな違いがある。ただ真の「学」びができたならば、常に「損」することの中に「益」のあることを知るであろう。善く「道」を修することができたならば、常に「益」の中に「損」を見ることができよう。「損」の中に「益」を求めるとは、私欲を取り去ること学び、名誉や利益を求める気持ちを捨てることを学ぶことである。そうでなければ真に学問の「益」である「大道の理」を得ることはできないであろう。ここに「損」の中に「益」を求めることの深い教えがあるわけである(注 外的な事象のとらわれを損することで「大道の理」を知ることができる)。また「益」の中に「損」を求めるのは、例えば富裕な人が自分の持っている財産のとらわれから脱するということである。栄華にある者もそれを忘れる。そして本当に必要なものだけを残して他は捨ててしまう。また足りなければそれを補う。これがつまりは「益」の中に「損」を求めるということの深い教えである。今の修行者は、こうしたことをよく理解し得ているであろうか。日々知識を増やして行く学びをしていたのでは、決して日々に損する修行はできない。そうした修行をするには日々に「益」を求めてはならないのである。


〈奥義伝開〉老子がここで「損」するとしているのは、その前提として「損」するものがあるからである。それは「学」によって得たものである。つまり「学」と「道」は全く別のものではなく、「道」の修行の前提となるのが「学」であり、それを損ずることで「道」の修行へと入ることが可能となることを老子は教えている。武術であれば先ずは合理的な体の動きを学んで、そしてそれを損ずる。損ずることで形にとらわれることなく自在な動きを得ることができる。問題はどのように損ずるかであるが、太極拳はゆっくり動くことで、動きそのものの意味を無いものとした(抽象化)。ゆっくり動いての突きは最早、突きの意味をなしていない。そうすることでより自由な動きを得ようとしたわけである。また詠春拳などは動きを小さくすることで抽象化をなそうとした。しかし多くの修行者は、こうした「無意味化」「抽象化」を理解することなく、動きに通常の武術と等しい「意味」を見出そうとしている。そして結局は不合理な動きを盲信してしまうことになる。


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