宋常星『太上道徳経講義』(47ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(47ー4)

そうであるから聖人は、外に出てなくても知ることができるのであり、実際に見ることがなくても分かるのであり、行わなくても成すことができるのである。

聖人は、よく天下のことを見ているとされる。それは個々の事柄をしてよく知っているというのではなく、自己の「一身(注 「一」である「道」と一体となった身体)」を通して世間のことを理解しているからである。またそれは単に「一身」をしてということではなくて「一理」をしてということでもある。「一理」とは、社会の根源の「理」のことで、それは社会のあらゆることに及んでいる。あらゆるところにも存している。そうであるから「我が一身の一理」をして社会の全般を見ると、あらゆる事象で共通した「理」が働いていることが分かる。そうであるからわざわざ外に出て世間の事象を知ることもないのである。遠くに出て求める必要もないのである。「一理」とは「自然」のことであり、我が心の「真知」でもあって、それは「自然」とも融合している。そうであるから外に求めなくても世間で起きている事柄の本質を知ることができるのである。それはつまりは先にあった、ドアから外に出ないで世間のことを知ることが出来る、ということでもある。そうでるから「聖人は、外に出てなくても知ることができる」とされているのであり、昔の聖人は、よく「天の道」を知っていて、天地を見るのに「天の道」をして見ていた。つまりそれは「一心」をして「天の道」を見ていただけではなく、「一性」をして見ていたのであった(注 「一心」とは自己の中に「道」を認識すること。「一性」はあらゆるものに「道」を認識すること)。「一性」とは「天の道」を動かしているものであり、それはあらゆる物の中で働いているし、あらゆる物に存している。そして「我が一性」をして「天の道」を見ると、眼の前の事象は全て「天の道」の現れであることが分かる。「性」と「理」はつまりは「乾」と「坤」であり、あらゆるところにあるのであるから、どうしてそれを知るために遠くに求める必要があるであろうか。広く古今東西の一切は「真名」を持つことは無く(注 「道」のレベルでは個々の物が区別されて「名」を持つことはない。つまり「真名」という「名」は具体的には存在しない)、ただ「自然」があるだけなのである。心に円明なる道の眼を有していれば、「自然」を深く洞察することができる。我の「真見」とは全く眼に頼って見ることをいうのではなく、自然と一体となって感覚として見えてくるもののことである。これがつまりは、見ることが無くても知ることができる、ということである。見ないでも分かるのは、先に窓を開かないでも「天の道」を見ることは可能であるとあったのと同じである。そうであるから、ここでも実際に見ることがなくても分かる、とされている。物事にはそれぞれがあって、それぞれが存している。聖人は出かけることが無くても、天下のことを知り得る、見ないでも分かるのは、それは単なる表面的な知識として知ることを言っているわけではないからである。ただ表面的な理解のことではないからである。それは深い知を得ることを言っている。深く見ることを言っているのである。深く知ることができていれば、同時に深く見ることもできていよう。それは「性」と「天の道」とは渾然一体であるからに他ならない。「理」と世間とは、ひとつのものとして働いている。それはそうしようとすることもなく、そうなろうと努力する必要もなくそうなっているのであり、自然にそうなっているのである。無為にして為されているわけである。そうであるから行わなくても成すことができる、とされている。天地でも物でも人でも、有無、虚実の中にあるわけでる。つまり有無や虚実や変転が為されるのは「善(注 自然そのままということ)」であり、それを促すのが「性」なのである。促すとは変転をさせるということでもある。また変転は「気」が変転するのであって、「善」とはその気の変転の「理」でもある。物が形を持つ前には「気」を受けている。ここに変転が促されるわけである。気を受ける前には「理」に物は依って存している。つまりこれが「善」なる「理」ということである。万物は「気」を受けてそのぞれの形を持つのであり、そうなることで万物は物として現れている。万物が現れると、そこには「理」もあるし「善」もある。そしてそれは物の「性」でもある。個々の物を成しているのは「性」であり、ここで「行わなくても成すことができる」というのが「性」の働きである。それは陰陽が形となることで、天の道が具現されるようなものであり、剛柔がその性質を表すことで地の道が示されるようなものでもある。仁義の「徳」は人の道として現れ、天の道は気によって成っていて、地の道は形に依る。人の道は徳に依る。天の気、地の形、人の徳の全ては「一理」に依っている。この「理」は天にあっては「道」となり、人にあっては「性」となる。聖人が意図して為さなくても、必要なことを為し得ているのは、まさにその「性」に依っているからである。聖人が天下のあらゆることを知っている、ということを詳しく考えて見ると、それは「天の道」を見ているからなのであり、聖人の「性」はここに「天の道」と一体、融合しているわけである。またここに万物の「理」も備わっている。自己の「性」を究めれば、人としての「性」を極めることが出来るのであり、それは物の「性」を究めることでもある。そうなると万物の「性」を究めていることにもなる。そしてそれは天下の「性」と何ら変わるものではない。天下は広いが、聖人の「性」もまた広い。天の道は無限であるが、聖人の「性」も無限である。もし、我が「性」を知る人が居れば、それはそこに聖人の「性」と同じものを見ることであろう。聖人の「性」を見ることの出来た人は、天の道の為さずして成すことを知るであろう。そうなれば、どうして外に何かを求める必要があるであろうか。修行をする人はここをよく理解しなければならない。


〈奥義伝開〉宋常星は瞑想などによって深い知を得れば、全てのことが分かる、という考えを持っていたようである。これは一般的によくある考え方でもある。「道」を悟れば全てが分かるというようなものである。しかし老子のいう「道」は合理性、法則性のことであって、その実際は個々の事例によって異なっている。あらゆることにおいて合理性、法則性のあることは共通しているが、それがどのような合理性であるのか、法則性であるのかは個々にあっては同じではない。実際にはそれぞれの特性がある。人はそれぞれの場面で、それぞれの自然の法則である「道」を知って行動をする。それが無為ということである。


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