宋常星『太上道徳経講義』(47ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(47ー3)

遠くに求めれば求める程、知ることは少なくなってしまう。

天下の事象は多いが、その「理」はひとつである。本当の「知見」を求めようとするならば、それを外に求めても得ることはできない。もし、外にそうしたものを求めたならば、結果としては徒労に終わることになろう。つまり外に「知見」を求めようとする者は、単に事象の表面を知るだけに留まるのであり、そうした人はけっして「衆妙の門(注 第一章に出てくる。要するに「道」の意)」に入ることはできないのである。それは外に求めれば求める程、その心は迷ってしまうからである。そうしたことを「遠くに求めれば求める程、知ることは少なくなってしまう」としている。世間の事象はいろいろとあるが、その「道」はひとつである。ここに「知見」を外に求めることの不適切であることが分かったからには、どうして不十分な耳目に頼り、真の見聞を得ることを妨げることがあろうか。遠く外に求めるのは、内的な「性」への沈黙に向かうものではない。そうしたもので「知見」の本質が得られないことを知るべきである。見るのは遠くを見てはならない。ありのままを見るには微細な感覚がなければならないのであり、大きな世界の全てをカバーするには、自己の「性」を見つめるより他にないのである。道を修する者は、遠くを捨てて近くを求めることがなければならない。


〈奥義伝開〉仙道では「練己」を第一とする。自己を練ることが始めであり、最重要であるとされるわけである。そして、これはまた「還虚合道」であるともいう。仙道の第一段階である「練己」と最終段階の「還虚合道」は共に「虚」の感得であるからそこに深浅の違いはあっても等しいものとするわけである。つまり「虚」のあることを感じて修行は始まるわけであり、それをより深く体得することが最終的な目的とされているのである。老子が外に向けての探求が無意味であるというのも、外に向けて「実」の知を得ることだけでは本当のことを知ることはできないからであり、「虚」である思索の知が兼ね備わらなければならないのである。


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