道徳武芸研究 矛盾する「愛の武道」としての合気道(8)

 道徳武芸研究 矛盾する「愛の武道」としての合気道(8)

一部に「投げ技は受け身が取られれば利かない」とする見方もあるが、実際は受け身が取れるように投げる方が難しいともいえる。弾力のある柔道場のようなところでも、ある程度のダメージはあるし、板の上や地面、あるいは障害物が置いてあるようなところで投げられるのはひじょうに危険である。ただ相手を投げることは関節技ほどではないが簡単ではない。そこで植芝盛平の言うように「当身」が重視されることになるのであるが、それはここでは触れないこととする(ちなみに盛平のいう「当身」は拳などによる当ての他に「間合い」という意味もある)。一方で大東流の「合気」の投技への展開は、一部にカルト的な「迷信」の世界に入って行くことにもなっている。こうした大東流の変遷についてはまた稿を改めて考察したいと思っているが、大東流の本来の形を知るメルクマールになるのは八光流であろう。「愛の武道」としての合気道の矛盾を解消するためには「合気」はあくまで前段階として「愛」で和して、その悪しき攻撃して来る相手の「穢(けがれ)」を「呼吸力」によって「禊(みそぐ)」という図式によるしかあるまい。こうして見ると植芝盛平はなんと用意周到にいろいろな概念を残していたものであると驚くばかりである。


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