道徳武芸研究 矛盾する「愛の武道」としての合気道(7)

 道徳武芸研究 矛盾する「愛の武道」としての合気道(7)

もし合気道が「合気」だけを使って単に相手の攻撃から離脱するだけであったならば、「愛の武術」ということもそのままに成り立つのであるが、むしろ門弟たちが求めたのは「呼吸力」で相手を投げる方であったのであり、ここに合気道の構造的な矛盾が生ずることになる。合気道というけれど、実際に使っているのは「呼吸力」であり、「合気」はそれを成功させるための導入に過ぎないことになっているからである。近代以降、柔道が盛んになると柔道のような威力のある投技への要求は大東流においても看過し得ないものとなる。しかし大東流の「合気」は実戦では使えない。相手の中心軸を操作する稽古法としては優れているが、それをそのまま実戦で用いることはできない。もし実戦でもそのままの「合気」が使えるならば柔道を相手に絶対的な優位が示せるはずであるが、そうした事例は全く無い。植芝盛平が大東流の「合気」を取らなかったことや北海道を離れてからは武田惣角の教えを受けることを避けていたのは、大東流の「合気」やそれに付随する複雑な固技が使えないと思っていたからであろう。「愛の武道」と言いつつも盛平は生涯、攻防の強さを求めていたのであり、それは超能力のような迷信にまで及んで貪欲であった。


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