宋常星『太上道徳経講義』(47ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(47ー2)

ドアを開けて外に出なくても、天下のことを知ることはできる。窓を開けなくても、天下のことを見ることはできる。

ドアとは外に出入りするところである。窓は外を見ることのできるところである。見るとは見てその様子を知ることである。ドアを出て知る、ということを考えてみるのに、その知ることのできることには限界のあることが分かろう。窓を通して見ることのできる範囲も、それは限られたものに過ぎまい。天下に生じていることは実に多い。天の道の理も精妙を極めている。そうであるから「天下」のことをよく知るのは容易ではない。ただ見ることのできる範囲だけをして「天下」を知ったことにはならない。およそ凡俗の人は、すべからく自分の知ることのできたことが全てであると思っている。見ることのできる範囲のものが全てであると思ってしまっている。そうであるからそうした人たちは、見ることのできたことが全てであると勘違いして、それ以上のことのあることを知ろうしはしない。一方、真に知ることのできる人は門戸を出ることはないし、真に見ることのできる者は窓を開くことはない。真に知ることのできる人とは、天下の「理」を知ることのできる人なのであり、真に見ることのできる者とは、物事の本質(性)を見ることのできる人なのである。「理」をして「性」を知ろうとするのであれば、いろいろな起こっている事柄の中に共に働いている「理」を通して知ることは可能であろう。「性」をして世間を見れば、天の道の微細な働きの全てをその本質(性)において見ることができよう。これが「ドアを開けて外に出なくても、天下のことを知ることはできる。窓を開けなくても、天下のことを見ることはできる」である。こうした視点からすれば、聖人が天下を知るというのは、天下の事事の全てを知っているというのではないのであって、世間の「理」を知っていることが分かる。また天地を見るにしても天の道を見るのではなく、その「性」を見るのである。聖人の行為における「理」は天下に働いている「理」と同じである。また天下に働いている「理」は、聖人もそれによっている。つまり天下に君臣、父子が存しているのと同じく、聖人にも君臣、父子の「理」が存している。天下には吉凶や盛衰があるが、聖人もそうした「理」によっている。天下で起きる事には、いろいろと予測できないようなこともあるし、同じようなことでも違った結果になったりすることもある。そうしたことも聖人の有している「理」と変わることのない「理」から生まれている。進退、出入、順逆、存亡これらは何れも異なるものであるから当然のことに結果も同じではない。しかし、それぞれにはそれぞれの「理」があって、それぞれの結果に至る。結果に至るべき「理」は一定しているわけである。こうした「理」のあることを知らなければ天下の出来事を知ることはできない。聖人の有している「性」とは、天下では「道」となる。また天下での「道」は、聖人の「性」でもある。天下での「道」には、内もないし、外もない。「性」においては、動と静とは一体となっている。天下において「道」は万物に存していて「無心」である。聖人の「性」は万物について「無情(注 とらわれがない)」である。天下の「道」は、風雨、雷鳴として現れることもあるが、それはまた「太極」そのものである。そうであるから「太極」もすべての物に及んでいる。聖人の「性」は喜怒哀楽として現れることがあるが、その本体においては常に「静」である。つまり「「道」が行われているところには「性」を見ることができるのである。およそ「性」が働いているところには「道」も働いている。「性」を見ることのできるものには、世間の「道」を知ることができる。そうであるから結果的に「性」は「理」であるということになる。また「理」は「道」でもある。「性」「理」「道」この三つは一つである。よく「理」を知ることが出来れば、世間の事柄において知り得ないものはないということになる。そして世間の事柄を知ることができれば、それはそこに働いている「性」をも知り得ているということになる。そして「性」への悟りを得ていれば、天下の「道」も分かっていることになる。つまり「道」とは「一」なる「性」なのである(注 道と一体となった性)。世間でのあらゆることは「一」なる「理」によっている。そうであるから「道」が分かれば「理」も分かるわけである。個々の事柄について知ろうとしないところに「真知」が得られるという深い教えがここにはある。あえて個々の事柄を見ようとしないことで、「真見」が得られるわけである。そうであるからどうして世間のことを知るのに外出して、表面的なことだけを知ることにこだわる必要があるであろうか。窓を開いて、表面的な事柄を眺めるだけのことをする必要があるであろうか。ドアから出て知る、窓を開いて見ることが出来るのは、表面的な知見であるに過ぎない。そうした知見においては形や色が分かるだけであって、その奥にあるものを知ることは出来ない。よく天下における「道」の展開の奥深さを考えてみれば、それは捉えどころのないものであることが分かろう。これら無極や太極、動や静、陰や陽で表されるような事柄は、知ろうして知ることの出来るものではなく、見ようとして見ることの出来るものでもない。無極とは名もない天地の始め(第一章)のことであり、太極とは名が付された万物の発生(第一章)を表している。そうであるから無極があれが太極もあるのであり、太極があれば、つまりは動静があることになる。動静があれば、つまりは陰陽があることになる。そして無極は太極であり、太極とはつまりは動静であって、動静は陰陽なのである。無極は太極の「静」で、太極は無極の動でもある。動は陽で、静は陰、世間には陰陽、動静がある。陰陽動静は無極、太極の「理」そのものである。そうであるから無極と太極は、造化の「理」の中枢にあることになる。万物の根底をなしているわけである。聖人の「性」の奥義もこうしたところにある。「性」への悟りがあるからこそ「無知」を知ることができるのであり「無見」を見ることが可能となるわけである。


〈奥義伝開〉ここで述べられているのと同じことは『古事記』の案山子(かかし)のところでも見ることができる。『古事記』では案山子について、歩くことはできないが、天下のことを知っている、としている。また案山子のことは別に久延毘古(くえびこ)ともいうが「久延(くえ)」とは壊れているということで、案山子は足が不自由で動けないためにその名がある。「案山子」を「知」のシンボルと考えれば、それは「立禅(一般的に知られている太気拳のものではなく、ただじっと立つだけの瞑想法)」を表していると捉えられよう。通臂拳の張志通は外丹功の予備式(左右に腕を垂らして立つ)の姿勢で深い意識のレベルに入ると「世の中のあらゆることが見えて来る」と言っていた。またソクラテスもしばしば立ったまま忘我の状態にあったとされている。こうした動かない瞑想により深い「知」の得られることを特に老子は述べようとしている。


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