宋常星『太上道徳経講義』(46ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(46ー7)

つまりは「知足」の「足」るとは「常足(道と一体となって不足を感じない)」ということなのである。

これまでに「欲」と「足るを知らない」「得ようと思う」ことについて述べられていたが、これらは全て「貪(むさぼり)」ということに尽きる。もとより「貪」の種は「欲」にある。あらゆるところに「貪」が広がると、あらゆるところで「知足」が満たされることはない。あらゆるところに「貪」がなければ、あらゆるところで「知足」が得られる。道を学ぼうとする人は、はたしてよく「天の理」の正しさと完全なる合一を得ているであろうか。古人は、欲望を有することがなければ「万物の理の全てが自らの内に備わることになる」「天地の徳も、全て我が身に帰することになる」と教えている。妄想を抱くことがなければ、「不足」を感じることもないであろう。そうならなければ安らかな気持ちでいることもできまい。そうであるから「つまりは『知足』の『足』るとは『常足(道と一体となって不足を感じない)』ということなのである」とされている。ただ道理の分かる人であればそれが正しいと理解できるであろう。優れた教えであると分かるであろう。それは我が身の外に求められるべきものではない。またその「理」は一つだけでもある。もし、これをよく体現することができれば、それを修して深めるべきである。そして天下を正すべきである。


〈奥義伝開〉最後に「常足」という語をして、「足」るという感覚が、「大いなる道」と一体となったところから得られるものであることが示される。それは単に現状を肯定するものではない。また世間の常識や価値観からも超然としたものでもある。重要なことはそうした感覚を育てることで、それには自己の本来の心のあり方である「性」が開かれなければならない。そのためには「静」を得る必要がある。濁った水も静かにしていれば自ずから濁りは下に沈むように「静」を実践していると、自ずから後天的な欲へのとらわれは希薄になって行って「大いなる道」「天の理」を知ることができるようになる。ちなみにこうした「静」の状況、静坐の境地を「樸」という(第十五章)。


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