宋常星『太上道徳経講義』(46ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(46ー6)

およそ咎(とが)として「得ようと思う」ことほど大きなものはない。

ただ「禍(わざわい)」が「足るを知らない」ところから起こるだけではなく、「咎」もまた「得ようと思う」ところから生ずるものである。それは「理」に背いているからであり、それによる「咎」なのである。そうであるから、その「咎」は自分で求めたものということになる。それで「得ようと思う」とされている。強く「得ようと思う」心があると、それが実現するか否かは別として、実質的には大きな害が発生する。それは飢えている時に食べ物のことを考えるようなもので、そうした時には食べ物のことばかりを考えてしまって他に考えが及ぶことはないであろう。気落ちが一方に向かうのを、どうすることもできなくなる。もし礼儀や恥のことが気になっても、どうすることもできない。親戚や友人が相手であっても、飢えている時に食べ物を求める気落ちを制することは不可能である。そして少しでも食べ物が得られると思えば、それを争ってでも得ようとする心が起こって来る。その悪辣さは狼や虎の如くで、獲物を前にすれば貪りの心が生まれてしまうのである。またその狡猾であることは蛇やサソリのようでもある。どうしても食べ物を手にしようと計略を巡らせるような者は、兎を見つけたら鷹を放って兎を得させようとすることであろう。また他人をして(殺生をさせて)己が利を得ようとするならば、網を投げさせて魚を採るということもあろう。また近隣の人たちから、利を得ようとするなら、そうした人たちの了解を取ることなく勝手な振る舞いをすることもあろう。天下国家を得ようとするなら、天下国家において何らかの噂のないところで、憎しみを生み出すことはできないので、そうした社会不安を煽って、天下を得ようとする。限りない恨みも、世の噂から生まれるものである。およそ(こうして社会を不安に陥れて天下を得ようとする)これほど大きな「咎」はないであろう。そうなれば身を滅ぼし、命を失うことになろうし、国も失われ、家も立ち行かなくなるであろう。これらも、すべては一念の「欲」から生まれて、大きなことになっているのである。そうであるから「およそ咎(とが)として『得ようと思う』ことほど大きなものはない」とある。修行者は、まさに心を浄化し、淫らな考えを持たないようにしなければならない。欲を去り、貪りから脱する。たとえ欲望の対象となるようなものを見たり、聞いたりしていない時でも、常に清らかで、静かな境地にあって、自らを養う。どのような逆境にあっても、自分というものを堅持していれば「三天が善を記し(道教の最高神である三清が善を行っていると天の帳簿に記録してくれる)」「五帝が功を考える(太古の聖なる王であればその功績により高位で迎えようとする)」ということになるものである。まさにそれは間違いのない生き方をしているということなのである。


〈奥義伝開〉最後は「得ようと思う」ということが「咎」となると教えている。無為の立場からすれば得られるべきものを得て、得られるべきでないものは得ない、というのが自然と考える。欲しいと思うことは良いが、それが得られなくても気にしない、ということである。実際に得たいと思うものを得て不幸になることも少なくない。得たいと思うものは、なんとなくそう思っていれば良い。機が熟せば自ずから得られることもあろうし、時間の経過と共に欲しいと思う気持ちがなくなってしまうこともある。そうであるから得ようとする思いを強いて肯定することも、否定することも「咎」となるのであり、そうしたことにあまり執着しないで、ただ心の片隅に放置しておけば良い。


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