宋常星『太上道徳経講義』(46ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(46ー5)

およそ禍(わざわい)として「足るを知らない」ほど大きなものはない。

「欲」は大いなる「罪」であるが、また「足るを知らない」のも大いなる「禍」ということになろう。人が天地に生まれた時、欠けることのない善を備えている。「一」なる「性」は「混沌」としており、ここにあっては何の不足も生じてはいない。しかし、物を争って得ようとする欲望が生まれると、自分と他人を区別する私意というものが出て来るようになり、真は捨てられ妄(みだ)りな思いが生まれてしまう。そうなると偽りのものを見て真と思い、賊をして親しみを覚えるようになる。そうして真性(本来、有している心)が失われてしまう。「性」の中にこそ真の楽しみのあることも知らないし、真の豊かさが心にあることも理解し得ない。そうであるから何時も不足の思いにとらわれている。まさに天地万物によると見える豊かさも、全ては心の中から生まれていることが分かっていない。「至道」「至理」は全て我が「性」の中にあるもので、それこそが真の楽しみとなるものなのである。人は自分の持っている「至道」や「至理」を捨てて、どこに楽しみを得ようとするのであろうか。自分の外に満足を求めて、自分の持っている「黄金の山」を顧みることもなく、空爆たる外界にそれを求めようとする。君主が足るを知らなければ、容易に戦争が起ころう。臣下が足るを知らなければ、自身に禍の科が下されることとなろう。一般の人たちが足るを知らなければ、貪りが横行し他人を騙して利を得ようとする者が日々続出するであろう。そうなると君主でも、臣下でも、人民でも、およそ足るを知らない者には、必ず禍が生ずることとなろう。そうであるから「およそ禍(わざわい)として『足るを知らない』ほど大きなものはない」とされている。これは戒めとするべき言葉である。


〈奥義伝開〉「足るを知らない」ことが「禍」であるとされている。つまり「欲」は完全に否定されるのではなく、必要不可欠な範囲においてはそれが働かざるを得ないことを認めている。これは儒家で言われる「中庸」も同じである。「中庸」は「半分くらい」というのではない。「あるべきバランス」ということであり、それは「自然」な状態でもある。また仏家では「中道」という語が重視されている。こうしたことを背景にして中国では次第に儒、道、仏の三教の合一が説かれるようになる。形意、八卦、太極拳の合一も「柔」や「静」に共通点を見出している。こうした「真理の普遍性」の捉え方は中国思想の特徴とも言える。


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