宋常星『太上道徳経講義』(46ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(46ー4)

およそ罪として「欲」の肯定ほど大きなものはない。

内には心身を保つことができず、外には家や国を安んじることもできない。それは「欲」を肯定してしまうからである。およそ「欲」の害はあらゆるところに存している。例えば飽食や華美贅沢などは、全て一つの思い、つまり「欲」から生まれている。また大海を埋め立てて、大邸宅を建てるといったことも、全ては一念の「欲」によるものである。そうであるから「およそ罪として『欲』の肯定ほど大きなものはない」としている。つまり、それは極めて強い弩であっても、それをうまく発するには一瞬の機によらなければならないし、天の星の「火」の兆しが現実となってこの広大な大地を焼き尽くすのと同じなのである。つまり一念は微細なものではあるが、その害するところは甚大となる、ということである。修行者は、先ずは止念ができなければならない。思いの湧き出るのを止めることができなければ、不眠不休で熱心に修行をしたとしても、ただ徒労に終わることであろう。こうした徒労を生むのは大いなる「罪」とすることができるのではなかろうか。


〈奥義伝開〉以下、知足へと議論を収斂させて行く。その第一は「欲」の肯定を問題視する。およそ無為をして得られるもの以上を望むのが「欲」であるといえよう。無為をして、というのは必然として生じたことに対処するだけの生活をして、ということであり、その中には当然であるが行うべき仕事も含まれる。無為をして発生した仕事をして得られたもの以上を得ようとすることころに「罪」が生まれる。武術であれば練習の努力をしないで、おかしな上達法に迷うのは「欲」があるからである。一回の練習には一回分の功があり、二回では二回分の功が得られれば良いのである。それを過大に得ようとすると失敗をする。


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