宋常星『太上道徳経講義』(45ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(45ー1)

日月はあらゆるところを照らし、山岳には鉱物が含まれている。天は高く明らかで、地は広く安定している。こうしたことは全て作為をもって出来ているのではない。無為にして生み出され、そうあるべきところがそうなっている。そうであるから天地の大きさ、日月の明るさ、山の安定と川の流れ、人の生成、こうしたものは全て陰陽、動静の機によっているのであり、誤ることの無い太極の理に従っている。そうであるから輝いているべきところは自然に輝いているし、広大で安定しているところは自然にそうなっている。輝くべきところは自然に輝き、流れるべきところは自然にながれている。生成されるべきところは自然に生成されているのである。これらはつまりは等しく同じ「清静の気」によって存しているものであり、その「理」によって成り立っている。ただ「清静の気」には清濁の違いがあり、また「理」においても、それが得られたり、失われたりしている。それぞれの存在には固有の天徳があると思われるかもしれないが、裏表がなく、「理」に合わないところがないのが、つまりは「聖賢」なのである。つまり「大成した人」ということである。もし「清静の正気」が損なわれたならば、そこでは「清静の気」の「理」は失われて、私意が出てしまうことになる。そして結果として生成の働きが失われてしまうことになる。これは「清静の正性」が失われているのであり、こうした人を「大成した人」とすることはできない。この章で天下の「正」とあるのは、こうした「理」が正しく実践されているという意味で使われている。またこの章では「清静」を体として、「正大」を用としているが、この体と用を知る人も少ないであろう。そこには自分が優位に立とうとする気持ちがあってはならず、一方に偏った見方をしてもよろしくない。そうしたことでは大成を期することはできないのである。


〈奥義伝開〉道と一体となった「大成(成功)」「大盈(円満)」「大直」「大巧」「大弁(雄弁)」には、それぞれ反対の「缺(欠いている)」「冲(虚しい)」「屈」「拙」「訥」といった要素が含まれているとする。そうでないものは変化に対応できないから合理的なあり方ではないと考えるのである。自然は変化をするものである。そうであるならば道=自然と一体となった真のあり方においては表面的なものと反対の要素が内包されていて、変化に対応できるようになっていなければならない、と老子は教えている。


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