宋常星『太上道徳経講義』(45ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(45ー7)

動いていれば寒さを感じることもない。静かにしていれば暑さを感じることもない。清く静かであることが、この世にあっての正しいあり方なのである。 

ここで述べられているのは、正しきを得ることのないことの例えであり、それは一方に偏ることである、とされている。「清静の道」の詳細を述べれば、あまりに過度であってはならず、あまりに不足してもいけないのであり、そうしてあらゆるところに及んでいて、自然にしてそうなっている、といったものになる。それはまた常に清く、常に静かである。こうしたことが道の根本となる。そしてそれを働かせれば「理」が現れて来る。それはまったく正しいものであって、それは物事について見ることができる。正しく存在し得ていない物事はないのであって、それは心も同じである。心は全く正しく働いているが、それを陰陽でいうと、陰陽の正しい理を得ているということになる。また寒暑でいうならば寒暑の正気ということになるが、果たしてよく修行者はそれを感得しているであろうか。動いていれば熱くなく、静かにしていれば寒くないのは、中正自然の道である。そうであるから「大成、大盈、大直、大巧、大弁」とされているものは全て清静の正きを得ているのである。もし、そうでなければ、欠けていることが完成されたものより勝れいているとしたり、冲(むなしい)をして盈(みつる)ことに勝るとしたり、屈することをして直なるものに勝るとしたり、拙なることをして巧みなることに勝るとしたり、朴訥であることをして弁舌に勝るとしたりしてしまう。こしした一方が勝るとするのは、動いていれば寒さに勝てるとか、静かにしていれば暑さに勝てるというのと同じである。つまり冬の頃で、極めて冷えている時には満天に霜や雪が降り、冷たい氷が地を覆っている時でも、汗だくで路を行く人も居るが、それは動くことが寒さに勝っているわけである。あるいは夏の頃の極めて暑い時には、熱風が吹いてあらゆる物を熱してしまうが、こうした暑気に遭った人も、静坐をしていれば、暑さを感じることもない。これがまさに静かにしていれば暑さに勝てる、ということである。ただ静坐をしていても、完全に体が動かないということはないので、まったくそこに熱を感じないということもあり得ない。こうして見ると「動いていれば寒さに勝てる、静かにしていれば暑さに勝てる」というのは、一方のみのことであって、偏った見方ということになる。つまり勝つ方だけがあるのではなく、勝ちには必ず敗れることが伴っている。盈(みつ)れば必ず欠けるということである。直なるものは必ず折れるのである。巧みなるものは必ず鈍くなって行くのである。弁舌を弄するものは必ず言い淀むものである。あまりに過度でなかったり、不足しているのは、正しきを得ていない。その正しいあり方を求めようとするのであれば、まさに清静の中にあって、それを求めるべきである。清静とは大いなる道の本体であり、偏ることもなく、過ぎることも、及ばないところもない。勝ちを求めようとする心もなくして、一方を特に求めることもないのである。天地と心を一つにして、万物と一体となっている。そうであるから有無に過度にこだわることもなく、動静にも揺らがず、是非に染まることもない。完全な形を求めなくても、自然にあるべきようになっている。無為、無欲で、勝ちを求めなくても自然に勝っている。正しきを求めなくても、自然に正しくあることができている。もし、こうした「正理」を得ることができたならば、寒暑の害も、自然に「害」として存することはあるまい。動いていたり、静かにしていて寒暑に勝とうなどということもあり得ない。大いなる成功は単なる成功ではないことや、大いに盈ることはただに盈ることではないことをどうして憂える必要があるのであろうか。大いなる直(す)ぐさがたんなる直ぐさでなく、大いなる巧みさがたんなる巧みさではなく、大いなる弁舌がたんにそうではないことを、どうして憂える必要があろうか。つまり清静は「天下の正」であるから、天下の人は全て清静でなくては成らないのである。そうなればあらゆる人は「正」しきを得ていることになる。道を学ぼうとする人は、果たしてよく一方に偏ることがないであろうか。あらゆる縁を放下して、勝とうという心を捨てて、その清静の正しきを守る。それが聖人のあるべきとしないで、どのようなことをあるべきとするのであろうか。


〈奥義伝開〉ここでは「躁」と「静」があげられて、人においてはこれらが共になければ寒暑に対応できないとする。武術でいうなら「躁」は技の修練であろう。また「静」は静坐などの瞑想となろう。これら二つが必要であることを老子は既に指摘している。また「躁」は攻防に対応するためのものであるが、「静」はそれを拒否するためのものである。こうした位置付けは日本における坐禅や中国の静坐でも明確ではない。往々にして攻防に資するものとして坐禅や静坐が扱われている。普通の生活にあっては、なるべく攻防を拒否するような心身の状態を静坐で練るべきであり、危急の際には攻防の技をして対処すれば良いのである。


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