宋常星『太上道徳経講義』(45ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(45ー6)

大弁には、訥々とした感じがある。

大いなる道の妙は、「大巧」は「拙」劣であるように見えることもあるというだけではなく、「大弁」にあっても、あたかも朴「訥」であるかのように見えてしまうところにある。「弁」とは言葉をして述べることである。「訥」とはあまり流麗に言葉が発せられないことである。これは言うなれば「天の道」であり、また陰陽であり、造化の妙そのものでもある。また風や雷をして万物の生成の「機」を発動させるのが「地の道」である。貞(ただしさ)や静をして万物の形を成し、柔や順をして万物の「性」を和する。これらは全て天地の「大弁」の妙処といえる。天地にはこうした「大弁」があるとはいえ、それが未だに人々の耳に達したことはない。たとえ人々の耳に達することがないとしも、四季は巡って、語られることはなくても万物は生まれ来ている。つまり「大弁」とは何かを語ることではない。そうであるから「訥」であるよう、とされている。つまりは「大弁には、訥々とした感じがある」ということなのである。古(いにしえ)の聖人は、何も語ることがなくして、天下を教え導いていた。つまり「天地は語ることはない」のであるが、よく万物の妙に応じて滞りなく働いている。そうであっても、何も語られることはないのである。言わねばならないということでは、こうした天地、人、物の「理」をどうすることもできはしない(注 天地、人、物はすべて無為によって動いている。それを有為である「言う」ことによって動かさそうとしても、そこに「理」はない)。言うことなく教える、というのは、天下でも国家でも、大いなる道から外れているものは無いからである。そうであるから天地の万物は、誰が語らなくてもその「理」を有して働いているわけである。そうであるからことさらに聖人が教えを垂れることがなくても万物は生成されている。聖人の教えとは、語ることがなくしてそのままで道が実践されている、というところにある。何も語ることがなくても、その徳が自ずから現れているわけである。こうしたところに語ることはない(訥)、ということの意味があるわけである。それはあたかも流麗な弁舌のようには見えないかもしれないが、そこでは「真に語るべきこと」が語られてい無いというのではない。それが「大弁」の妙なのである。そして、そこにあるのは「善応(善なる感覚の共鳴)」「善教」ということである。天地や聖人を見てみると、それが全く一体であることが分かる。どうしてか。それは「弁舌の巧みな人」では正しく道を養うことができないからである。よく徳を積むことができないからである。天下の事柄について明らかに知ることはできず、大いなる道の「理」も、一つの道理(一貫の妙)として理解し得ていないからである。よく口を動かし、舌を働かせることができれば、よく論じて勝つことができるであろう。こうした口先だけの徒は、朴訥であるようなことはない、舌鋒鋭く、機知に富んでいる。こうした弁舌の徒は(古代の弁舌家である)蘇秦や張儀のようとすることができるであろうが、こうした人物が全てを語り尽くしたこともないし、こうした弁舌の徒によって真理が述べられたこともない。語らないというのは、言語が発っせられないということであるが、かつての聖人はよく例えをして教えていた。それは直接的に語ってはいない、ということである。しかし、実際に語れば、それは「理」が語られるのであり、それを聴く者の心をして「理」を感得せしめるところのあるものである。聖人は問えば答えてくれるが、やたらに語ることはない。無駄に語る者に聖人は居ないということである。


〈奥義伝開〉天地は無為である。そうであるから人も無為であれば、そこには「完全なる理」が示されてることになる。これが無為の教えであり、「大弁」ということになる。儒教では「仁」が重要であると説くが、「仁」そのものの定義にはあまりこだわらない。一方、西洋哲学では「愛」の定義を巡って延々と論議がなされている(神の「愛」と人の「愛」は違っているなど)。老子の「善」も何をして「善」としているのかは、自然のままである、といった緩やかな方向性は示されているものの細かなところは個々人の判断に任されている。ために中国で展開されたのは「思想」であって、西洋の「哲学」とは別のものとして捉える人も居る。武術でも「放鬆」を巡って鄭慢青はひじょうに苦労したという。師の楊澄甫からは時に「堅い」と言われ、時には「緩めすぎ」と言われたらしい。確かに「放鬆」は簡単な言葉であるが、太極拳ではそこに深い意味を込めている。それを細かに言葉で表現しても、実際の伝授を受けなければ、その感覚は伝わらない。ある意味であらゆる言葉は本来は「大弁」であり、多くの人はそれを知らないで、分かりあった気分になっているだけなのかもしれない。


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