宋常星『太上道徳経講義』(45ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(45ー5)

大巧は、拙いように見えるものである。

大いなる道の妙は、「大直」と「曲」において見られるだけではなく、「大巧」と「拙」においてもそれを知ることができる。「巧」とは巧妙であるということである。「拙」とは拙劣であるということである。天地の間にあって、あらゆる物は、形を有して存在している。それは丸かったり、四角であったり、曲がっていたり、真っ直ぐであったりもする。それぞれがそれぞれの形を有していて、長短、大小がある。こうした形の差異はあまりに多く言い尽くせるものでもない。また全てを絵に描くこともではしない。あらゆる物は、大いなる道が巧妙に生み出したものである。ただこうした巧妙さがあったとしても、いろいろな形の物、あらゆる優れた物は、全てが無為の中で生み出されれている。生まれるべくして生まれている。そうして生み出された自然の物は、それがそのまま役に立つわけではないので、これを「拙い」としている。しかし、こうした自然の物も加工をすれば、使い方も決まって「拙い」という状況ではなくなってしまう。つまりこの世に存しているもので「拙い」状態のままで完結し得ているものはないとも言えよう。そうであるから「大巧」のように聖人の有する「巧みさ」は、普通の人の「巧みさ」と同じではない。普通の人の「巧みさ」は、ただ巧みであるだけに留まっている。しかし、聖人の「巧みさ」の中には「拙さ」が含まれているのである。「巧み」であって、あえて「拙い」くある、というのは普通の人でもできるかもしれない。あえて、そうしようとすれば可能であろう。ただこうした「巧み」さは「大巧」とは見なされない。「拙い」ことが「巧み」であるようなことが、意図しなくてもできている、無為にして自ずから可能となる、ここにおいてこそ「巧みさ」の実際の働きも無限となるのである。つまり「巧みさ」の「原理」には具体的な形はないのであり(注 自然の形から有効な物となる決まったプロセスはない)、天地の働く中にあって、万物が生み出されている。こうしたことは全て「大巧」ということができる。聖人の「巧みさ」ということができるであろう。ただ普通の人はこれを見ることもできないし、知ることもない。ところで道の修行をしている人は、あらゆる場面ではたしてよく無為を自らに守ることができているであろうか。恣意的な行為は安定した行為とはならない。何も考えることのない中にこそ「至拙の妙」はある。つまり「至拙」には自ずから「至巧」が含まれているのであって、それは太極と同じである。陰陽はそれぞれが関係をしていて、造化においては不離であるところに「造化の巧」があるのである(陰陽は「巧」と「拙」のような対立する働き。これが共に関係し合って「造化」の働きがある)。


〈奥義伝開〉「大巧」は「拙(つたな)」いように見えるというのと同じような見方は「易」では「簡易」として提示されている。究極的なものは複雑、巧妙ではなく、簡単で易しいものであるというわけである。老子は他では「樸」(第十五、十九、二十八、三十二、三十七章)という語も使っている。ここでの宋常星の解釈は「樸」の説明に近いであろう。つまり加工をされない自然のままの状態では何かに使うことはできないが、それはいろいろに使える可能性を秘めている状態でもある、というわけである。八卦拳の八母掌と、流布している八卦掌を比べて見ると、八卦掌には左右の変換動作のところにいろいろな攻防の技が組み込まれている。一方、八卦拳ではただ左右に変わるに過ぎない。これが余りに「簡易」であるので、後の八卦掌の修行者は自らが会得していた武術の動きを参考にして「技」を増やしていったわけである。これにより内在していた攻防の動きは顕在化して限定的なものとなってしまった。そして更にはその動きから「八卦掌は戦いにおいて掌しか使わない」といった更になる「限定」も加えられてしまう。つまり「簡易」であるものの方が「巧」であり、巧妙に作り上げられた方がかえって「拙」いものとなってしまっているわけである。


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