宋常星『太上道徳経講義』(45ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(45ー4)

大直であるものは、曲がっているようにも見える。

大いなる道の妙は、大盈に冲(むな)しさが見られるだけではなく、また「大直であるものは、曲がっているように見える」ものでもある。道から物は生まれる。それは、道が生み出そうとして生み出しているのではない。上下がひとつとなり、本末が一体となっている、これがつまりは大いなる道というものなのである。あるいはそれは虚であっても、あらゆるものを包含することができる。あるべき姿のままであり、争うこともない。これがつまりは「曲がっているよう」ということでもある(注 「直」とは存在そのもののあり方で老子はこれを「僕」ともいう。また「曲」は加工されていない自然の状態で、この状態では何かに使うことはできないので「曲」となる。それはまた他の物と価値を競うこともない無為な状態でもある)。道を学ぼうとする人は、はたしてよく「直」を基本として、「曲」を働きとすることができているであろうか。こうした基本と応用においては、つまりは「曲」にその理がある。「曲」っているものは、そうでなければ「直」でしかあり得ない。つまり「直」であるということは、それだけで完結しているのではないのである(注 「曲」があるので「直」が認識できる)。つまり「直」が「直」として完結しているのであれば、「曲」がっているものは「曲」がったままで完結しているということにもなろう。そうなると「直」と「曲」との実際のあり方とは齟齬が生まれてしまう(注 「直」が単独では「直」と認識できない。「曲」があるから「直」と分かることが説明できない)。そうであるから「大いに直であるものは、曲がっているように見える」とされている。ここで述べられているのは、既に述べたように「直」と「曲」とは等しく存在価値があるのであり、「曲」が「直」のように使えないということはない。詳しく「直」ということを考えて見るに、それは「原理」としての潜在的な価値をいうものであり、「曲」は「実際」としては価値を有してはないが、それを用いることのできる場合(注 装飾的な部分や燃料として)には価値を有しているとすることができる。「原理」的な価値において「直」は「直」として有用であり、「実際」にあっても「曲」は「曲」として有用なのである。つまり「曲」の価値とは実際への「応用」において「直」と同等であるということになる。つまり「直」とは「原理」そのままで価値を有しているもの(注 誰が見ても価値があると分かるもの)であり、そうでないものは全て「曲」ということ(注 「直」とは違った場合において価値を持つ)とされている。「原理」においてそのままで価値を持つ「直」でないものは「曲」となるわけである。そうであるから「直」だけで「曲」が存していなければ、それは一面の価値しか表現できないので広がりを持つことはできない。例えば「乾=天」はそれだけで完結しているのではない。「乾=天」だけあっても乾道(天の運行)は円滑に行われない。「坤=地」もそれ単独であるのではなく、それだけでは坤道(地の道)は動かない。天地(乾坤)の一方だけで完結しているというのは「乾」は「乾」としてだけ在るということであり、それでは「乾」が働くことはないのである。もちろん「乾」は「乾」で独立した存在ではあるが、実際においてはそれは「坤」と同等である「乾」の「坤」と共にあるという「理」がなければ、それぞれが円滑に働くことはないのである。単独で完結しているということは、それはそれ以外には及ばないということである。例えば物が集まるのは「実際」であって、物が拡散されるのが「原理」とすると、こうした集散も、「乾=陽」が集まる働きであるとすると、「坤=陰」は拡散する「原理」があるとすることができる(注 反対に「乾く」を集まる「原理」、「坤」を拡散する「実際」とすることもできる)。そうであるから天地の道と一体となった「直」つまり「大直」の「原理」は、まさにここで見たように「直」とは反対の「曲」を実際として含んでいるのである。世の理に通じている人は、はたしてこうした「原理」と「実際」の関係をよく理解できているであろうか。「直」の「実際」においては「曲」的な展開があるのであり、それは「直」だけで完結するものではないのである。


〈奥義伝開〉ここでも宋常星は「直」と「曲」が等しいものとして、それらの性質を互いが有している、と説いている。ただ陰陽互蔵という視点からすれば、これらは違うものを共に含んでいると解する。孫禄堂は「等しい」という観点から形意拳、八卦拳、太極拳をどれも同じようなもの(後に孫家拳と称される)としてしまった。しかし、これでは三つの武術を練る意味が失われてしまい、孫派のシステムは十分な働き(実際)を持つことがなかった。孫禄堂は名人とされつつもその技を受け継ぐ名人の出ることはなかった。それは主たるシステムである「直」と、それに反するシステムである「曲」とが共にあって、それぞれが、いろいろな場合で入れ替わることで、「直」や「曲」を超えた真の働(自然な働き)きが生まれるからである。


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