宋常星『太上道徳経講義』(45ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(45ー3)

大盈(えい)ているとは、冲(むな)しいところがあるように見えるもので、そうであるからそれを用いて限りがないのである。

大いなる道の妙としては、大成は欠けたところがあっても大成であるように、大盈も冲しいところがあって大盈なのである。「盈」とは満ることで、「冲」は虚しいということである。大いなる道の本来的な様相をいうならば、そこには欠けているところもないし、余っているところもない。円満具足していて、その大きなことはこの世の果てにまで及び、小さなことはきめて微小なところにまで至っている。あらゆるところに遍満していて、あらゆる物の中に入り込んでいる。こうしたことが、大いに盈(みち)ている状態である。その円満であることは欠けることなく、あらゆるものが含まれる。その思いも及ばないことは、どこにも塞がっているところもなければ、破綻しているところもないのであるが、それは虚霊なる一定の形を持たないものであるから、それを表現することもできない。それは存するというのでもないし、存しないということでもない。神妙で計り知れないものであって、至神、至霊、至虚、至妙である。こうしたとらえどころのない状態が冲(むな)しいとされている。つまりこうしたところが、大盈であって冲しい、というところの妙があるわけである(注 大いなる道があらゆる物に及んでいるのが「盈」であり、道そのものを見ることはできない、ということが「冲」である)。そうであるから、これを天において用いると、天の道は滞りなく働き、地に用いれば、地の道の働きの窮まるところがない。これを人に用いれば、人の道において行き詰まることもない。これを物に用いたならば、物の道は窮まることない。その実際のあり様を見るに、あるいは道があるようにも見えるし、無いようでもある。動であるようでもあり、静であるようでもある。小さいようでもあり、大きいようでもある。その働きが明らかであるようでもあるし、よく見えないようでもある。しかし、道はあらゆるところに及んでいて「大盈」でないところはない。しかし、それはまた全て冲しい存在でもあることによって、働きを有してもいる。つまり、大いなる道はあらゆるところに盈ち盈ちて及んでいて、あらゆるところで働いているのである。そうであるから「限りがない」とされている。つまり「大いなる用は冲しきがごとし」ということである。「冲」であればこそ、その働きはあらゆるところに及ぶことになるわけである。昔の聖人を見ると、その道の実践は天下に用いられて、あらゆるところに及んで窮まりがなく、その徳は古今を貫いている。そしてその徳の及ぶところも遠く広くして計り知れない。これが「冲虚」の本質であり、そうであるからそれを用いて窮まることがないのである。また「冲虚」の本質は聖人の道でもあって、それは盈(えい)を求めることがなくても、自ずから盈(みつ)るものでもある。窮まることのない働きは、聖人の徳であり、それは求めることがなくても自然に有されて、それは盈ることを求めなくても、自ずから盈ちている。聖人の徳は、それを実践しようとしなくても、自然に実践されている。聖人の道は、形而上にあってはその教えが明らかであるし、形而下にあっては具体的な事物の形を通してそれを知ることができる。大いなる道は天地の間のあらゆるところに盈ちていて、そうであるから、およそ聖人の徳の及んでいないところはないのである。


〈奥義伝開〉ここも前と同じく「大盈」には、満ちていない部分(冲)があるということである。これにより変転きわ(窮)まりない状態であることが可能となる。武術の稽古もやり過ぎでも好くないし、少なすぎてもよろしくはない。武術の修行もひとつの動きだけに限定したのでは、変化に対応できない。力の形として、異なった集中形(△)の形意拳、拡散形(□)の太極拳、連環形(◯)の八卦拳を兼習することがちょうど良いバランスになる。これは植芝盛平も気づいており、◯、△、□を用いて盛んに提唱していたが、どのようにこれらの力の形を練ったら良いのか、という具体的な方法があるのか、までは提示し得ないままとなった。


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