宋常星『太上道徳経講義』(45ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(45ー2)

大成しているものは、缺(か)けているところがあるように見えるもので、そうでなければ円滑に運用することはできない。

万物の生成にあっては、あらゆるものが生成されるのであり、生成されないものはない。これが天地の生成の妙処である。ただそれを視ようとしても視ることはできず、これを聴こうとしても聴くことはできない。そこには音もないし、匂いもない。形もないし、影もない。そうであるから万物の生成は天地における欠けることのない妙処なのである。動静は滞ることなく、往来は止まることがない。長くあるべきは長く、久しくあるべきは久しく、有るべきは有り、無かるべきは無い。これが天地の欠けることのない妙処なのである。「缺ける」とは不適切になるということである。聖人は天地の大いなる「体」を得て、天地の大いなる「用」を働かせている。そうであるから大成して欠けることがないのであり、その働きにおいても円滑を欠くことはない。それは聖人がそうであるばかりではなく、天下の事物には全てこうした「体」と「用」が備わっているのであって、全てあるべきようにして存しているわけである。ただ事の生成にあっては、欠けるところがあるように見えることがある。それは新たに物が生まれる前には、必ず死滅すること、つまり欠けることがあるものである。物が生まれたり、生まれなかったり、欠けたところがあったり、無かったりするのは、その「用」においてである。どうしてか。物事が適切に「用」いられれば、そうしたことはないのであるが、それが適切でなければ欠けているところ(注 天地の造化の働きが円滑に行かないところ)が出てしまう。ただ「用」が適切であれば滞りなく新しい物が生まれるし、そうでなければ生成の働きは円滑を欠いてしまうものとなる。こうした「理」を既に知っていれば、どのような事が成るか成らないか、それが事前に既に失敗してしまっていることが分かるものである。そうなるのは大いなる道の「体」を知らず、大いなる道の「用」が明らかになっていないからである。そうであるから何かを成そうとしても、働かせようとしても欠点ばかりになってしまうのである。ただ聖人は性情(注 物が本来有している働きの傾向)の正理、大いなる道の機微を体得している。そこでは「動」があれば「静」もあるし、「静」があれば「動」もあるのであって静動は一つとなっている。また「体」があれば「用」があり、「用」があれば「体」もあって、「体」と「用」の断絶は存していない。吉凶や生滅の理は、語られることはなくても自然に現れている。進退、存亡の道は、それをあえて探らなくても存していることは分かろう。もし完全なる「理」において、完全に「性(注 物の働きの傾向)」のままに「用」いられたならば、そこには影も形も視ることはできない。そうであるから欠けていると見えても実際はそうとは限らないし、生成の働きがうまく行われていないようでも、実は行われているのである。こうしたところに大成が欠けているように見えること(注 物に「死」があることなど)の不可思議さがある。それを心身に用いれば心身は適切に育まれる。大成しているものは、全てそれが用いられて大成がなされている。もし大成が出来ていないのであれば、聖賢の道統を明らかにするべきであろう。帝王の至治を見習うべきであろう。そうすれば万世に渡って不適切であることも、乱れることもないし、古今に渡って滅亡の危惧を抱く必要もない。それは(沈んではまた登る)天の日の如くであって、人の力ではどうすることもできないものなのがある。それは湖の底の月のようであって、人が扱えるようなものではない。つまりこうした人の意図の及ばないところがあるのは、欠けているようであっても本当は欠けてはいない、ということである。そうであるから「大成しているものは、缺(か)けているところがあるように見えるもので、そうでなければ円滑に運用することはできない」とある。古人は成るところには成る働きがあるのであり、欠けたところに「成」る働きはとはないので、一見して欠けたと見えるところでも、それは必ずしも欠けているとは見なさなかったのである。つまり欠けた見えるところも、本当に欠けているわけではなかったのである。ここで述べられているのはそうしたことに他ならない。そうして見ると、欠けるとことがなくして成っているものは、欠けるとことがあって「用」いられているように見えるものである。そうなれば道徳は日に新しく、「体」「用」は完備しており、何らないものはない。大いなるものでないものはないのである。


〈奥義伝開〉宋常星は、真の完成(大成)とは、大成していると見えるものも、欠けたところがあると見えるものも、共にそれは自然の一部であるから、本当に欠落しているわけでないと読んでいる。生き物が死んだり、物が壊れたりするのも、新たな生成につながる自然の働きなのであり、それを欠けているとみなすべきではないのである。人は自分の作った基準によって完成しているとか、大成していると考えるのであるが、それは正しい認識ではない。こうした解釈は老子の思想からしても間違いではないが、これではこの章の最後の「躁」と「静」まで一貫した理解が得られない。やはり、完璧なる完成(大成)には反対に欠(缺)けている部分の含まれることが言われていると見るべきであり、そうであるから変化にも対応できることを老子は強調していると取るべきであろう。


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