宋常星『太上道徳経講義』(44ー9)

 宋常星『太上道徳経講義』(44ー9)

そうであるから長久であることができるのである。

最後のこの一節は「知足」「知止」ということの意味をより明らかにしたものであり、人が身を有している、ということの意味について述べたものでもある。つまり、この身は四大(地、水、火、風)が一時的に結合しているものに過ぎず、いろいろな感覚も一時なものであるに過ぎない。つまり身とは水に浮かぶ泡のようなものであって、命のあるのはわずか一瞬のことなのである。百歳まで生きられる人も居るが、多くは七十まで生きられる人も稀れである。また道の修行をしている人であっても、長生きのできる人は少ない。ましてや今の人は、限り有る壊れやすい身である上に、不測の事態の起こる危険もあって気を抜くこともできないで居る。真性(心の本質)は永遠に続くが、命(身)はたちまちに終わりを迎える。こうした真霊は「殻」を投げ捨てなければ見えてくるものではない。どのような資産がであっても、高い地位にあっても、ひじょうに高い報酬を得ていても、家には比べることのできない程の価値のある珠を有していたとしても、比べることのできない程の美人を妻としていたとしても、死ねばそれらはことごとく放棄されてしまう。それは自己自身が本来、有しているものではないからである。同様に社会的な名声も、それが得られることもあれば、失うこともある。富も同様である。良い時、悪い時は浮雲のように過ぎて行く。得られたものを失ってしまう。それは稲妻のように一瞬の出来事である。つまりこれらは「長久の道」のものではないのである。もし「長久の道」を得ようとするであれば、ただ「知足」「知止」を実践すれば良い。そうすれば浮き沈みや危機に遭遇することもなく、人生の道のりを「長久」であらしめることができる。つまり「長久であることができる」ということなのである。もし「世情」というものの本質をよく見ることができたならば、「長久の道」というものも分かることであろう。それは名声や富貴を求めて人生設計を考える道ではなく、大きな仕事をして莫大な富を得る計画でもない。日々のなんでもないような行いにおいて、過度な貪りや執着を戒める道なのである。どのような行為にあっても「知足」「知止」を守って行く。そうすればどのように高い地位や、どのように大きな富でも、それを「知足」「知止」であるとして係ることができる。どのような高い報酬を得られたとしても、その満足度はそれ程でもない時と変わることはない。つまり「知足」「知止」は、物質的なこととは関係なく「人の情」において行われるべきあるべき「理」なのである。それを長く堅固に保ち、心の上に置いて忘れることがなく、日々にその気持ちを固く持っていれば「知止の理」は、天地と等しく永久に存するものであり、「知足の理」も、大いなる道と等しく終わることがない。幻の塵ような俗世をよく見てみなければならない。そして無駄な浪費を止めて、人生を失敗しないようにしなければならない。


〈奥義伝開〉長生きは中国人の重視するところであり、そうした憧れが「神仙」という幻想を生み出した。老子の述べている「長久」も同様な考え方の上に立っているのであるが、老子の場合は不自然に長く生きることを良しとするものではない。草木が枯れるように自然に老衰して亡くなるのが好ましいとするわけである。老子は「身」が最も大切にしなければならないものと教えている。そうであるから「兵」については「不祥の器」(第三十一章)として最も好ましくないものとする。自分を殺すことも、他人を殺すことも、自然に反する行為なのである。この章では特に自分の欲望によって寿命を縮める危険が述べられている。武術は自らの命を守るためのものであるが、やり過ぎで自分自身を傷つけてしまうことが往々にしてある。老子はそうしたことは本来の自分を見失って欲望に振り回されているからであると教えている。


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