宋常星『太上道徳経講義』(44ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(44ー8)

止め時を知る(知止)と危機に陥る(殆)ことがない。

「知足」が得られれば、適当なところで止めることができよう。「止め時を知る」ことができるのは、一定の満足感を持つことができているからである。一定の満足感を持っている(知足)のは、心が満たされているからである。「知止」とは、止めることを知ることであり、それはやり過ぎて道の範囲を逸脱しないということでもある。またそれは徳の範囲に留まるということでもある。道徳や仁義を体得していれば、止め時が来ても残念に思うことはない。たまたまうまく行ったとしても、熱湯かもしれない湯に手を入れる時のように充分に注意をしながら慎重でなければならない。過度な贅沢にふけることなく、邪なことはしないと心に誓う。どのような行為についても、内に「謹つつしみ」を持って、外に「慎(つましく)」していて好悪の気持ちを持つことなく、利欲によって心が動かされることもないようにする。そうであるから、そこには正しいことや間違っていることの区別はなく、他人も自分も存してはいない。気楽くで自在であって、何らの危険も生まれることがない。これがつまりは「止め時を知る(知止)と危機に陥る(殆)ことがない」ということなのである。


〈奥義伝開〉止め時というのは最も難しいものである。誰でも自分のやって来たことを否定したくないので、決定が遅くなってしまう。そのため老子は「知足」を合わせてあげて、立ち止まることを教えている。現状を肯定する、ということは、これ以上することがない状況にある、と考えることである。状況がうまく行っていても、そうでなくても一応、現状を是認することで、立ち止まることができる。つまり「知足」「知止」は無為を実践する方途でもあるのである。


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