宋常星『太上道徳経講義』(42ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(42ー7)

人の悪(にく)むのが、ただ「孤寡」であり「不穀」であれば、また「王公」と称されるものもある。

ここで示されているのは、一般的に考えられる不調和のことである。ここでは「人の悪(にく)むのは、ただ「孤寡」であり「不穀」であって」とある。「冲気」によって調和は得られ、それは万物に及んでいるばかりではなく、「王公」も等しく「冲気」の影響下にある。つまり「冲気」があるから国を治め天下は泰平であることができるわけなのである。そうであるから和合を欠く「孤寡」や「不穀」は「人の悪(にく)む」ところとなるのである。「孤」は頼る人が居ないことで、「寡」とは徳の少ないこと、「不穀」は不善であるということである。こうした「孤」「寡」「不善」はだれでも自分がそうありたいと思うものではなかろう。今「王公」として天下に貴ばれる位にある者が、反対に最も貴ばれることのない「孤」「寡」「不穀」を自称するとしたならば、それはどいうったことになるのであろうか。それは自らを貴ばず、尊しとしない虚心の境地にあるといえるのである。


〈奥義伝開〉人が好ましくないものとして「孤(両親が居ない)」や「寡(配偶者が居ない)」あるいは「不穀(食べて行けない)」という状態を発見したなら、その対極にあるものとして「王公(王や貴族)」が見出されることになる。これは言うならば社会に居場所の無い人とある人の違いでもあろう。多くの人は「孤寡」「不穀」と「王公」の中間に居て、ある場合には「孤寡」「不穀」に近づき、ある時には「王公」に近づいている。逆に「孤寡」であり「不穀」を気にしなければ、その人は「王公」と等しいとも言えるわけである。


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