宋常星『太上道徳経講義』(42ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(42ー6)

万物は陰を負っていえば陽を抱いている。冲気があれば和することになる。

万物は天地の間に生まれている。もし陰の気がなく、陽の気だけであれば、陰陽二気の交わりはなく、造物の機の生まれることもないので、万物の生れることはない。天から命(根源的な物質エネルギー)を受けて、それに気が加わって万物は生まれている。これを「(気が命を)負(おう)」という。二つの気が混じり合うと「真気」が涵養される。これが「(陰陽の気が互いに相手を)抱(だく)」である。万物にはそれぞれ内と外がある。内と外にはそれぞれに陰陽がある。陰陽には共に「負」と「抱」がある。内外にはそれぞれ陰陽があり、陰陽は互いに「負」「抱」が「合」う関係にある。「合」とはひとつになって変化をするということである。陰陽がひとつにならなければ「変」ずることもない。「変」とは「冲(ととのう)」ことでもある。「変」ずることがなければ「冲」うこともない。「冲」うとは「和」することでもある。「冲」うことがなければ「和」することもない。そうであるから陰陽、内外において、もし「冲気」がなければこれらが「和」することもないわけである。そうなると陽気は「変」ずることもできず、陰気も陽気とひとつになる(合)ことはない。たとえ「負」「抱」の理があったとしても、二気が交わることがなければ生成が起こることはない。それは苗が伸びることがなければ、実ることがないようなもので、「冲気」を得ることがなければ、二気が「和」することはないのである。そうであるから「万物は陰を負って陽を抱けば、沖気は和する」とされている。「冲」は虚である。「冲気」は「虚中の谷神の気」である。その虚気を得ることが陰陽の「変」「合」の奥義なのであり、そうなれば自然に「和」して「一」となることになる。万物の造化の機は、自然にあらゆるところに入っているのであり、これを「谷神」と称する。万物の「谷神=造化の機」がひとつに「合」わさると、天地の「冲」「和」をして、万物の「冲」「和」が「合」わさる。ここに生々の深い教えが存している。これが虚中の教えであり、これを人で言うなら、眼は虚であるからよく視ることができるのであり、耳は虚であるから聴くことができる。鼻は虚であるから嗅ぐことができ、舌は虚であるから味わうことができる。意(識)は虚であるから考えることができるのであって、心は虚であるから感ずることができる。これらに虚がなければ、陰陽はただ存するだけで働きを持つこと、つまり「変」が起こることはないのである。そうであるから天が虚を得たならば清く澄み、地が虚を得れば安定をする。人が虚を得れば長生きができる。物が虚を得れば生み出される。気が虚を得れば和することができる。道を修行しようとする人は、虚を得たならば、冲和の気、つまり「天根」が自ずから現れることになる。それは「月窟おのずから明らかになる(陰気=月窟、陽気=明がひとつになる)」である。そうなれば五行の気は集まり、陰陽は自然に混じり合う。長くこれを行うと、必ず道を成就することができるであろう。必ず丹が得られることであろう。


〈奥義伝開〉あらゆる物事つまり「万物」がもし陰を負っていたなら、そこには必ず陽があるものである。和合の気である「冲気」があれば、そこには必ず和する働きが生まれることになる。これはおそらく当時の格言のようなものであり「どんな物にも陰があれば陽がある」「和合の気(冲気)があれが和する働きがある」といったようなことが言われていたと思われる。これはごく当然のことである。陰が発見されればそこには陽が見出されるであろうし、冲気という和合の働きが見出されれば、和するは働きのあることがいろいろなシーンで見ることができるようになる。こうしたことは「一」の発見と同じである。


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