宋常星『太上道徳経講義』(42ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(42ー3)

一は二を生み、

「二」とは陰陽である。気の動静である。気の動は陽で、気の静は陰である。こうした動静のあることを陰陽と称する。陰陽の奥深いところは、本来的にそれらは二つではない、という点にある。太極は陰陽が分かれない前(無極、理)、それは静で陰であって、太極が出現すれば動となってこれが陽となる。陰陽が出てこない前は「理」のみがあって、それから働きとして現れるのが「気」である。「気」の働きは「理」によっているのであり、この「理」と「気」は二つは「動静」でもある。これらを統合する「一」の「理」からは陰陽の「二」が生まれる。それを「一は二を生む」としている。「動」とは「気」の働きであり、「理」をそこに見ることができる。「静」は「気」の帰るところで「理」そのものである。「動」は「理」によって働くのであり、必ず「静」が極まった後に「動」は出てくる。「静」は「理」によって動くのであるが、その「動」も必ず極まればまた「静」となる。動静は対極にあるが、これは天命(天の物質的な根源的エネルギー)の働きでもある。万物の終始でもある。もし、こうしたことをよく知ることができたならば、それを身に修するべきである。そうすることで天地の心を知ることができる。これを事象において用いたならば、そこに大いなる道の根本を知ることができるであろう。古くから聖人の道を教えは多くあるが、それらも動静の理の範囲を越えるものではない。「性(人間の本質的な心の働き)」をしてこれを言えば、人は穏やかで無欲ということになる。そうであるから「静」は「性」と同じなのである。「情」をしてこれを言えば、喜怒哀楽となる。「動」はつまりは「情」である。動静にあって、そのどちらかに偏ることがなければ、中正の道を行うことができる。つまり「性=静」から「動=情」が生まれるということが「一は二を生み」の奥義といえることなのである。


〈奥義伝開〉「一」という数が発見されれば「二」という数を見出すことも可能となる。武術でいえば「上段受け」が見出されれば「下段受け」「中段受け」の発見が可能となるということである。こうした発見を実戦の場で瞬時に行おうとしたのが意拳である。技を学ぶことのない「無」の状態から相手の攻撃が発せられて、自然に対応すれば理想的対応つまり技を出すことができると考えたのである、しかし、人の行動や思考は個々人の過去の経験から導き出されるものであるから、こうした試みは結果としては失敗に終わってしまった。ただ意拳のような前提とする知識によらない、とらわれない言わば「純粋行動」といったようなものは中国人の好むところで、禅の悟りはそうしたものによろうとしていた。既に示された経典(武術でいえば形)によるのではなく、自分で釈迦と同じ瞑想(座禅)をして、同じ悟りを体験しようとしたのである。予め釈迦の悟りを学ぶのではなく「純粋行動」としてのその悟りを得ようとしたわけである。もちろん禅でもそうしたことはできず。その試みも失敗している。


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