宋常星『太上道徳経講義』(42ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(42ー1)

虚霊を冲気という。柔順なるものを和気という。柔順の気において虚霊でないものではないし、虚霊の気であって柔順でないものもない。それを分けていえば虚霊と柔順となるが、これを合わせれば「一」となる。この気の興味深いところは「体」や「用」、「動」や「静」が根本としてあり、それが陰陽の昇降を養い、動静自然の変化の機となって働いている点である。集散や屈伸、そうした極まりのない変化は働きにおいて見ることができる。またこうした働きにおいては「形」があるのであり、これが「気」と称される。そうであるから働きは見ることのできるものでもある。しかし根本は見ることができない。つまり根本となるものは形を持たないからで、これを「神」という。それは「形」を持たないから見ることができないのであり、見ることができないから、天地にあっては、これを「天地の谷神」という。人にあっては「人身の谷神」と称する。万物にあっては「万物の谷神」である。このように「神」とあるのは、それが具体的な存在ではなく、内も外もなく、動と静は一つであるもので、これらは感応し合うことを通して一つとなる。「気」の観点からいえば、動静があり、変化があり、去来があり、終始がある。ここにおいて「善」は受け継がれるのであり、それ以外ではない。与えることも、受けることも「気」においてなされる。道を修行しようとする人は「冲和」の重要性をよく認識しているであろうか。どのようなことにおいても「無」が実践され、どのようなことにおいても矛盾のない行動をとるのが、修身の根本であり、天下の道である。それがまさに「冲和」なのである。

この章では、人をして「和」に至らしめることが語られている。「和」とは天地の元気である。この気を受ければ、天地はあるべきことろを得て、万物は自ずから育まれる。大いなる道はそこに参入されるべきであり、そうでなければ、依るべき「強い梁」は存しないことになる。


〈奥義伝開〉ここでは「道」つまり合理性や法則性の発見が、抽象化、概念化によってなされ、それによって意識の進化が促されることを教えている。それは筆が「・」本あり、「・・」本あり、「・・・」本あるのを、筆1本の集まりではなく「一」本、「二」本、「三」本と認識できるようになることである。これにより計算が可能となって、筆以外でもどのような物でも数えられるようになるし、大きな数も扱えるようになる。こうしてたことを老子は、普遍的な法則である「道」が見出されたとする。武術でも上段への受けにはさまざまな高さや角度があるが、それを抽象化すること、つまり「道」としての「防御の法則」が見出されることで「形」としていろいろな上段受けをひとつの動作を通して学ぶことが可能となるわけである。具体的な事象からそうした法則を発見すること、つまり「道」の重要性がここでは説かれている。


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