宋常星『太上道徳経講義』(41ー20)

 宋常星『太上道徳経講義』(41ー20)

つまり、ただ道は、善によって成るものなのである。

ここで述べられているのは、全体の総括である。おそらく後世には大いなる道の基本も応用も忘れられてしまうことであろう。「善」が活用されることもなければ、「道」が成ることもないであろう。ここでは「道」が明らかにされていて、不分明なところはないと言える。至道は隠れており「名」を持つこともない。もし、大いなる「道」によって修行をすることがなければ、修行の依るべきところがないことになる。もし、大いなる「道」に依らないで自身を涵養しようとしても、涵養のしようがないことになる。物が成ることの機縁は「善」に依らないことはない。つまり「道」は「善」をして成るべきものなのである。この章では「道」は信じるべきものであることが述べられている。それが「道」に入るべき門となる。あらゆる聖人、真人もすべて信ずることから「道」に入ったのである。愚かな人(下士)は「道」を聞いて笑うとあるが、それは「道」を信ずることができないからである。熱心に修行をして「道」を実践して、「道」を成就する人こそが聖人であり賢者なのである。


〈奥義伝開〉最後に総括して「道」と「善」との関係に就いて述べられている。具体的に「道」を実行しようとするならば「善」なるものが基準とされなければならない、という教えである。人として倫理的にふさわしいものを基準として行動すれば、それは自ずから「道」の実践となる。何が「善」であるのかをよく考えなければならない。信ずるのも盲信であってはならない。「善」の基準に照らして符合するものでなければならない。


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