道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(5)

 道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(5)

誰でもどこでも似たようなものは生まれ出るという技術の普遍性ということからすれば「発勁=寸勁」が日本の武術にあってもおかしくはない。また歴史的には天神真楊流は当身の威力の大きかったことで知られているし、現在では心眼流や諸賞流などは当身を多用する流派とされている。問題はこれらの当身がはたして発勁と同じ原理のものであったかどうかであるが、実は発勁の鍛錬として日本刀の素振りはひじょうに有効なのである。発勁を成功させるには心身の統一が必要があるが、それは息の吐き方と膝の使い方に秘訣がある。それを一致させる鍛錬として日本刀の素振りは実に適している。そうであるならば結果として日本刀の鍛錬をしていれば自然に発勁はできることになる。日本の武術で殊更に発勁を言わないのはそれができて当然であったためとも考えられるのである。この「できて当然の当身」は合気道の植芝盛平や塩田剛三の動きからも知ることができる。塩田の考案した臂力の養成などは、勘所が分かって練習すれば優れた発勁の鍛錬法となる。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)